日本代表が海で学生と練習「決まらなきゃ引退」 7時間のバス移動、夕食はピザ…辿り着いた壮絶リーグ

2008年にアメリカへ渡った鈴木隆行氏を過酷な環境が待っていた【写真:近藤俊哉】
2008年にアメリカへ渡った鈴木隆行氏を過酷な環境が待っていた【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:鈴木隆行(UNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOL代表)第6回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。日本、ブラジル、欧州でキャリアを積んできた鈴木隆行が次の舞台に選んだのは、アメリカだった。サッカーに限らない“世界の中心”での生活を求めて渡った地で、過酷な環境でのプレーを経験。懸命に生きた日々のなかで、今も胸に残る言葉とは――。(取材・文=二宮寿朗/全8回の6回目)

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 さすらいのストライカーが次に向かったのがアメリカであった。

 2007年に横浜F・マリノスで1シーズン過ごした後、31歳のストライカーが新天地に求めたのは欧州への再チャレンジではなかった。理由はサッカーというより、むしろアメリカそのものに対する興味だった。

「世界の中心ってやっぱりアメリカじゃないですか。アメリカに行かないで世界を見たって言えるのかなと思って、どんどん『行ってみたい』という気持ちが膨らんできた。そうしたら、たまたまMLS(メジャーリーグサッカー)のチームから練習参加しないか、という話をいただいたんです」

 ロサンゼルス郊外にあるチーバスのトライアウトに参加後、契約交渉に入り、鈴木のほうから報酬を低く設定したが、結局色良い返事はなかったという。

「後から聞いたところによると、エースとして活躍していた外国籍の選手が日本からしてもかなり安い年俸だったようで、だったらその選手より高い自分を獲得するという判断はしなかったんだと思います」

 アメリカと言えばMLB(野球)、NFL(アメリカンフットボール)、NBA(バスケットボール)、NHL(アイスホッケー)の4大スポーツであり、今でこそ人気が定着してきたMLSだが、2008年当時はまだ発展途上の段階であった。サラリーキャップ制が導入され、スター選手以外は年俸が抑えられていた実情もあった。

 MLSの他のクラブからも声がかからず、現地で一緒にチームを探してくれていた代理人も別の業務のために日本に帰国しなければならなかった。

日本人学生と練習しながらチームを探した日々

 アメリカ挑戦を断念せざるを得ない状況だったが、鈴木はアテもないのに一人アメリカに残る決断を下す。たまたま食事会で知り合った、アメリカの大学に通う日本人の学生と一緒に練習しながらチームを探すことにした。

「彼は滝川第二高サッカー部出身で、毎朝、LAにある近くのビーチで一緒に走ったりして大学に行く前に練習に付き合ってくれたんですよ。その縁でサッカーの関係者とつながることもできて、いろんなチームにレターを送ってくれて。関心を持ってくれたサンノゼのトライアウトを受けて、でもダメでまたLAに戻ってきて、またビーチで。4月のビーチってすごく気持ちいいんですよ。チームが決まらなきゃ引退だなって思っていたけど、練習終わってビールを飲んだらそんなこともすべて忘れることができて(笑)。1か月くらいそうやっていたら、ポートランドから声がかかったんです」

 独立リーグ(ユナイテッドサッカーリーグ)のポートランド・ティンバーズに誘われ、迷うことなく入団を決める。監督兼GMのギャヴィン・ウィルキンソンは元ニュージーランド代表で、鈴木の存在も知っていた。

 副業を持つ選手も多く、限られた予算で運営をしていくため、「野球のマイナーリーグのような」過酷な環境だったという。

 たとえば西部のポートランドから東部に移動して試合を行う場合、経費削減の目的もあって4日間で3試合のスケジュールをこなしたことがある。

「朝の飛行機で出て、トランジットで3、4時間くらい費やして(目的地の)都市に着いたらもう夜。練習もやらないし、何が驚いたって(空港から)前泊先のホテルへの移動は選手任せなんです」

 レンタカーが複数予約されており、監督とコーチはその1台を使って先にホテルへ。残りを選手たちが使って、自力で向かわなければいけないというルールだ。一人ひとりがチェックインし、食事も各々で用意しなければならない。それでも鈴木は夜に走って、コンディションを整えている。

 翌朝から試合までチームのスケジュールは何もなく、投げっ放し状態のままだ。鈴木は朝も個人で体を動かして準備をした後で、チームメイトと一緒に「サブウェイ」に立ち寄って昼食を取った。フットロングという長いパンを一本買いこみ、昼に半分食べて、試合前の軽食でもう半分を食べた。

試合後はピザを分け合い流し込む…過酷だったティンバーズ時代

 過酷だったのは、むしろ試合後だ。次の日も試合が入っているため、今度は試合会場から全員でバス移動となる。7時間かけての大移動で、夕食はチームが大量に買ってきたピザを全員で分け合って胃に流し込むだけ。「試合後にピザは、さすがに胃が受けつけないよ」と心のなかでつぶやきながらも、無理やりに食べて疲労回復に努めるしかない。

 宿泊先のモーテルに到着したのは朝6時。そこから睡眠を取って、夜の試合にまた臨む。このパターンで4日間3試合の“鬼スケジュール”をこなし切った。

「もう最後の試合なんて誰も声なんて出してないですよ。いや、出せない(笑)。長年、サッカーをやってきて、ここまで選手たちの声が出ないって初めてでしたね。3試合全部、先発で出ている選手なんて特にそうでした。ターンオーバーしたくても、そもそも人数がいないからそんなこともできない。逆に相手はフレッシュな状態ですから、当然差が出ますよね」

 昼開催だった3試合目を終え、ようやく帰路へ。疲労困憊のなか朝方に到着して、チームメイトとともに荷物を持って路面電車でダウンタウンに向かった。その間も会話はほとんどなし。タフで慣らす鈴木でさえ、限界を超えていた。

「電車を降りて、みんなダウンタウン近辺に住んでいるからそれぞれ歩いて帰っていくんです。その時、誰かが『みんな、これが俺たちの人生だ』って言って。何か今でも胸に残っているんですよね」

 過酷ではあるが、懸命にアメリカで生きている感じがした。多少なりとも求めていたものがあった気がした。だからこそ、その言葉が心に響いた。それぞれが朝に向かって歩を進めていた。どれだけしんどくても、つらくても、前に行こうとしてきた自分の半生にここでも重なった。

 結局、ティンバーズでは2010年まで3シーズンを過ごすことになる。年齢も30代半ばとなり、サッカーに対する情熱を高く評価していたクラブからコーチとして打診を受けた。

「アメリカには住めるだけ住みたいと思っていました。監督から『コーチとして残って、後々は監督を目指せよ』って言われたことはありがたかったですね」

 現役を引退して指導者に転身することを考えるようになっていた。日本に帰国した翌日、あの東日本大震災が起こった――。(文中敬称略/第7回に続く)

■鈴木隆行 / Takayuki Suzuki

 1976年6月5日生まれ、茨城県出身。日立工業高校から1995年に鹿島アントラーズに加入し、CFZ(ブラジル)、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)、川崎フロンターレへの期限付き移籍を経て、2000年途中に鹿島へと復帰。トニーニョ・セレーゾ監督の下で出場機会をつかみ、リーグ、天皇杯、ヤマザキナビスコカップ(現・YBCルヴァンカップ)の三冠に貢献した。その後はベルギー、セルビア、アメリカでもプレーを経験している。日本代表としても活躍し、2002年の日韓W杯の初戦となったベルギー戦では同点弾を記録するなど、通算55試合11得点を記録。2015年を最後に現役を引退し、現在はUNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOLの代表を務める。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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