「これから戦争が始まる?」 機動隊に装甲車も…元日本代表が衝撃「やるか、やられるか」

刺激に満ちたセルビアでの日々を回想した鈴木隆行氏【写真:近藤俊哉】
刺激に満ちたセルビアでの日々を回想した鈴木隆行氏【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:鈴木隆行(UNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOL代表)第5回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。クラブと代表でフル稼働を続けていた鈴木隆行は、精神的な疲労に苛まれていたなか、セルビアの名門・レッドスターへと移籍を果たす。ハイレベルな集団からの刺激や、世界有数のダービーマッチなど、得難い経験の数々を通じて、サッカーへの情熱を取り戻していく。(取材・文=二宮寿朗/全8回の5回目)

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 ベルギー、レンタル元の鹿島アントラーズ、日本代表とフルに活動してきた鈴木隆行は5年近くオフらしいオフがなかった。

 2005年、アントラーズで1シーズンを終えると心身ともにタフな彼でさえも、疲労に悩まされるようになっていた。

「それまでは別に休まなくとも、ストレスを感じたことはありませんでした。でもドイツW杯の年に入るくらいには、精神的な疲れで抜け殻みたいになっていましたね。もう何も考えたくないし、サッカーをやってもつまらない状態。これは環境自体を変えなきゃダメだって思いましたね」

 2006年1月、セルビア(当時はセルビア・モンテネグロ)のレッドスター・ベオグラードに完全移籍を果たす。あのドラガン・ストイコビッチが所属した東欧の名門である。移籍と時期が重なったため日本代表のアメリカ遠征にも参加しなかった。ドイツ・ワールドカップメンバーの当落線上にあることは自覚していたが、フットボーラーとして復活しなければドイツ行きもないと考えたからだ。2004年のアジアカップ優勝に欠かせない働きをした鈴木は実際、この決断によって結果的には日本代表から完全に遠のくことになってしまう。ドイツW杯のメンバーにも選出されなかった。

 レッドスターの一員になると、抜け殻はどこかに消え去った。国内リーグで当然のごとく優勝争いをしており、すべてにおいてレベルの高い集団に刺激を受けまくった。

「スタメンはほぼ代表選手だったと思います。それまで僕が所属したどのチームよりも強かった。テクニックも、フィジカルも、メンタルもすごく高いレベル。このシーズン、負けた記憶がないんですよね。一緒にプレーしていて、本当に面白かった」

 サッカーに対する情熱が胸の奥で再びこみ上げてくるのを感じ取ることができた。途中出場での起用が多かったが、それでも先発フル出場したラドニツキとの国内カップ戦では2ゴールを叩き出している。

パルチザンとの天王山で味わった初めての体験

 移籍1年目、パッと頭に浮かぶ思い出と言えば、4月にアウェーで行われたパルチザン・ベオグラードとの天王山だという。永遠のダービーと称され、フーリガン化したサポーター同士の衝突もよくある光景だ。優勝を争うこの一戦は無観客試合となったが、ここまで殺伐とした雰囲気に支配されたのは初めての体験だったという。

「バスから降りた瞬間に完全装備の機動隊に警護されて、金網の向こうからパルチザンのサポーターが、レッドスターの選手たちを挑発してくる。スタジアムのセキュリティの人も、すれ違う時にわざと大きな体を当ててきて、選手と揉めているんですよ。アップしていても自分とかアフリカの選手を標的にして、汚い言葉を浴びせてくるわけです。これから戦争が始まるのかっていうくらい異様でした」

 ベンチから試合を眺めても、そこにはフェアプレーなどなかった。チームメイトがカニ挟みのような形で背後からタックルを受けてもカードの提示はなし。ならば、とレッドスターの選手もやり返す。ちょっとでも気を抜いたら、誰かが大ケガをしてもおかしくなかった。

「全然大袈裟じゃなくて、もう本当にやるか、やられるかの世界。レッドスターの選手だって一歩も退かないし、何とかギリギリでサッカーの試合として成立している感じでしたね」

 衝撃的なシーンがあった。

 交代を告げられたパルチザンの選手がベンチに向かって激怒し、ピッチを出た瞬間に両手で地面を掘るように掻いたという。目は血走っていて、怒りに震えている姿をベンチから目にした。

「芝生の下にある土までえぐって、指の跡がついていましたからね。殺気立った雰囲気が続いて、自分のキャリアのなかで唯一、出たくなかった試合。標的にされて、大ケガさせられかねないなって思いましたから」

 出番は訪れず、試合が終わっても再びセキュリティとレッドスターの選手が揉める始末。最後まで荒れに荒れた。サッカー以外でここまで疲弊させられるとは思わなかった。

 1990年代初頭にユーゴスラビア紛争が起こり、終結してからも各地でその爪痕を残していた。レッドスターにも紛争に参加したスタッフがいた。町には空爆されてそのまま放置された建物もあった。知人からお土産でもらったクロアチア人格闘家のTシャツをロッカーに持ち込んだら、顔色を変えたセルビア人のチームメイトに「ベオグラード市内で着てはいけない」と忠告された。両国の政治的対立を考えれば、確かにそうだと思った。

海外移籍の根底にあるのは好奇心「いろんなものを見てみたい」

 このようなこともあった。

 コソボで試合をした際、過激で知られるレッドスターのコアサポーター集団が、チームバスの後ろについて現地入りした。バスからふと彼らを見たら、持っていた拳銃を渡していたという。つまりは普段から持ち歩いているということ――。セルビアが銃の所持率において高いことを知る。

 当時のコソボは、国連コソボ暫定統治機構による暫定統治下に置かれており、チームに対する警備があまりに厳重だったことが印象に残っている。

「チームが宿泊するホテルの前で、夜中もずっと叫んでいる人がいたんです。レッドスターが嫌いなのか、それとも違う理由なのかは分からないですけど、警備の網を突破してホテルに向かってきたんです。窓から見ていた自分もびっくりして。結局、いっぱいいた警備の人にすぐに止められてしまうんですけど、異様でしたね。スタジアムのなかに装甲車が止まっていて、ライフルを持った兵士が警備して。『おっかないな』って思った記憶はあります」

 コソボの人口の大半はアルバニア人だが、試合を行った地域はセルビア人が多く住む地域であり、レッドスターの選手たちがピッチに登場すると盛り上がったという。レッドスターに入ったことでサッカーを通じて歴史的な背景を直に知る経験ができた。

「(自分は)外に出ていろんなものを見てみたいっていう好奇心がすごく強い人間だとは思います。海の向こうに何があるかって興味があるので。ブラジルに行ったのはプロサッカー選手として生き残るため、欧州(ベルギー)に行ったのは自分のレベルをもっと上げるためというのが強かったとはいえ、根本にはそれがあるんです」

 2006年1月に加入してから激しい競争のなかリーグ戦は6試合に出場したが、ドゥシャン・バイェヴィッチ監督を迎えた翌06-07シーズンに入ると、ベンチから外れることも多くなった。報酬の未払いもあって、セルビアに別れを告げた。それでもサッカーへの情熱を取り戻す旅の目的は果たされた。(文中敬称略/第6回に続く)

■鈴木隆行 / Takayuki Suzuki

 1976年6月5日生まれ、茨城県出身。日立工業高校から1995年に鹿島アントラーズに加入し、CFZ(ブラジル)、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)、川崎フロンターレへの期限付き移籍を経て、2000年途中に鹿島へと復帰。トニーニョ・セレーゾ監督の下で出場機会をつかみ、リーグ、天皇杯、ヤマザキナビスコカップ(現・YBCルヴァンカップ)の三冠に貢献した。その後はベルギー、セルビア、アメリカでもプレーを経験している。日本代表としても活躍し、2002年の日韓W杯の初戦となったベルギー戦では同点弾を記録するなど、通算55試合11得点を記録。2015年を最後に現役を引退し、現在はUNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOLの代表を務める。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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