灼熱の中国に渦巻いた“反日感情” 壮絶アジア杯の真実…連覇生んだ命懸けの団結力「負けたら日本に帰れない」

鈴木隆行氏が優勝した2004年アジアカップの激闘を振り返った【写真:近藤俊哉】
鈴木隆行氏が優勝した2004年アジアカップの激闘を振り返った【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:鈴木隆行(UNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOL代表)第4回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。日韓W杯での活躍を経て、欧州での経験の必要性を痛感した鈴木隆行は、ベルギーへと戦いの場を移す。異国の地で揉まれ、世界最高峰のCLにも出場。確かな成長を見せると同時に、日本代表では完全アウェーの逆境となったアジアカップで最前線を支えて優勝に貢献。そのキャリアは充実の時を迎えていた。(取材・文=二宮寿朗/全8回の4回目)

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 日韓W杯が開催された2002年当時、ベルギーのジュピラー・プロ・リーグは日本人フットボーラーにとって馴染みがなかった。

 ベルギー代表との対戦でゴールを奪った鈴木隆行に、2001-02シーズン覇者の強豪ヘンクからオファーが届く。条件提示は、鹿島アントラーズで得ていた年俸の半分以下。W杯後、欧州にチャレンジすることを優先して考えていただけに、5大リーグでなくとも、条件が良くなくとも「行く」と決めていた。オファーからわずか数日で、ヘンクへの期限付き移籍がまとまった。

 基本的に外国籍選手の制限がないため、ヘンクにも5大リーグへのステップアップを目指す野心あふれる選手が各国から集まっていた。

「前年度優勝していて、各国の代表選手がほとんどで競争も激しい。体のサイズであったり、技術であったり、プレースタイルであったり、日本人選手とは違う特徴なので練習から自分が求めていたものと合致はしていました」

 得点力を誇る強烈な2トップの牙城を崩せずに出場機会が限られるなか、中盤で起用されて活路を見出そうとする。ポジションへのこだわりはなく、まずは試合に出て経験値を上げていくことが先決だった。

 欧州の地で学んだのは、とにかく結果を出すこと。メンタルの強さ、フィジカルの強さは言うまでもなく、勝利に結びつくプレーが試合で出せるかどうかが、何よりも重要視されていると感じ取った。

「アフリカから来たチームメイトがケガして離脱している時、試合前日に遊びに行ったことがクラブにバレてしまって。でも復帰してゴールを決めたら別に問題にならなかった。チームのルールを破った場合、日本なら試合に出られないとか何かしらペナルティーがあったりするじゃないですか。でもこっちではルールを破っても、結果さえ出せばみんな笑顔で握手する。そういうのを目にして、結果の世界なんだな、とあらためて思いましたね。言葉だって監督と直接コミュニケーションを取れるほうがいいに決まっているけど、それだって結果の前では小さなことに過ぎない」

ゾルダーで戦った1年で得た自信

 UEFAチャンピオンズリーグ(CL)ではレアル・マドリード、ローマ、AEKアテネと同グループに入り、鈴木もその舞台を踏んでいる。レアルのホーム、サンティアゴ・ベルナベウでも終盤に出場を果たした。結果は0-6の大敗とはいえ、イケル・カシージャス、フェルナンド・イエロ、ロベルト・カルロス、ルイス・フィーゴといった“銀河系軍団”を体感できたことだけでも大きかった。

「そもそも僕はCLのすごさが今ひとつピンと来ていなくて、ベルギーのリーグで試合に出て活躍したいから別にスペインに(自分が)行かなくてもいいし、ちょっと面倒くさいくらいに思っていましたよ(笑)。でもあのピッチに立って、自分でも知っているような有名な選手しかいなくて、スタジアムの雰囲気を含めてやっぱりすごいなって」

 CLでは1アシストをマークするも、グループステージで敗退。国内リーグも結局レギュラーの座を奪えないまま、6位でシーズンを終えた。レンタル期間が終了して一度鹿島に戻るが、すぐさまゾルダーへの移籍が決まってベルギーに戻ることになる。

 ゾルダーは2部から昇格してきたクラブで、鈴木も出場数を一気に増やしていく。中盤でもフォワードでも起用され、チームの中心になっていく。

「ゾルダーの時に自分のプレースタイルが良くなっていきました。試合にたくさん出るようになってより周りを見ることができて、落ち着いてプレーできた。フィジカルや能力では自分よりも高い選手がいっぱいいるなかで、ポジショニングや動きで勝負しようとしていました。ただ、毎試合、本当に苦しかったですね。駒の数が足りていないなかで、何とか自分が引っ張っていきたいという気持ちではありました」

 そもそも選手数が少なく、鈴木もフル回転しなければならなかった。奮闘むなしく1シーズンでの2部降格の憂き目にあう。最終戦では前年まで在籍したヘンクを相手に意地でゴールを挙げたのが、せめてもの救いだった。リーグ戦30試合に出場して5ゴールをマークしている。

 ベルギーでの経験値を積み上げたこのシーズンが、鈴木のスケールを一回り大きくさせたのは間違いない。ジーコが率いる日本代表にも断続的に招集された。

「今でも覚えているのは、アツさん(三浦淳寛)から『すごく調子いいな』って言われたこと。自分もゾルダーでプレーしていて手応えはあったし、自信にもなっていた。代表に戻ってきても心に余裕を持ってプレーできている感覚はありましたね」

アジアカップ連覇を支えた団結力と個々の強さ

 1シーズン、フルに働いた後に待っていたのが2004年夏、中国で開催されたアジアカップだった。2連覇の懸かるこの大会、2部降格となったためゾルダーから再び鹿島アントラーズに復帰した鈴木も、メンバーに名を連ねた。

 当時の中国では反日感情が高まっていたこともあり、日本代表はいずれの試合でも激しいブーイングにさらされるなか、鈴木は玉田圭司と2トップを組み、前線で体を張ってファイトする。それは高温多湿の環境下において、チームメイトを助けることになる。この大会でMVPを獲得する中村俊輔が「体を張って、前でファウルをもらってくれた。暑くて体力を奪われるなか、相手陣営で少しでも休めるのはありがたい。相手にプレッシャーがかかる一方で、自分たちはチャンスだって思える。これはもうタカさんのおかげ」と感謝したほどだ。

 グループステージを首位で通過した日本はヨルダンとの準々決勝に臨む。宮本恒靖キャプテンのPKエンド変更、川口能活の神セーブでのちに語り草となるこの一戦も、鈴木が同点に追いつくゴールを挙げて崖っぷちからの勝利を“お膳立て”している。

 この苦闘を全員の力で乗り切り、準決勝ではバーレーンに、そして決勝では開催国の中国に勝利して大会2連覇を達成。鈴木は全6試合に先発した。

「あのような完全アウェーの状況に立たされて、みんなで団結したというのは根本にありました。絶対に負けたくなかった。アツさんが『みんなで優勝して日本に帰ろう!』とミーティングの時に言ってくれて、命懸けで戦うと、みんなそう思ったはずです。その思いだけで言ったら、W杯以上。負けたら、日本に帰れないくらいに自分は考えていましたからね。だからこそ、みんなで優勝できたというのは誇りにもなりました」

 それぞれに力がなければ、完全アウェーの状況をはね飛ばすくらいの団結力とはならない。ひと息ついた後、鈴木はこう言葉を付け加える。

「たまたま勝ったということではないんです。みんな小さい時からサッカーで頑張ってきて、人間の根本的な強さを積み上げてこなかったら、あの状況で優勝にたどり着くことなんてできない。苦労して乗り越えた人間だけが出せるものだし、そういう選手が集まっていました。でも日本代表って本来そういうもの。今の選手たちも、若い頃から海外でプレーして苦労しながらも結果を出している。そういう選手が集まるから、日本代表としても結果を出していけるんだと思うんです」

 一人ひとりが「強さ」を積み上げ、その総体が一つにまとまった時に日本代表の「強み」が発揮される。それを見事なまでに証明したのが、あの灼熱のアジアカップであった。(文中敬称略/第5回に続く)

■鈴木隆行 / Takayuki Suzuki

 1976年6月5日生まれ、茨城県出身。日立工業高校から1995年に鹿島アントラーズに加入し、CFZ(ブラジル)、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)、川崎フロンターレへの期限付き移籍を経て、2000年途中に鹿島へと復帰。トニーニョ・セレーゾ監督の下で出場機会をつかみ、リーグ、天皇杯、ヤマザキナビスコカップ(現・YBCルヴァンカップ)の三冠に貢献した。その後はベルギー、セルビア、アメリカでもプレーを経験している。日本代表としても活躍し、2002年の日韓W杯の初戦となったベルギー戦では同点弾を記録するなど、通算55試合11得点を記録。2015年を最後に現役を引退し、現在はUNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOLの代表を務める。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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