チームは空中分解寸前「考えていることがあります」 選手生命を懸けた決断…元日本代表が見た“景色”

2017年のFC東京は大きな期待を背負っていた
現役時代、FC東京で長年にわたり活躍した元日本代表MF石川直宏氏。ベテランに突入した2015年、遠征先のドイツで全治8か月の大怪我を負った。思うように回復が進まない日々の中、自身の選手生命を懸けて、愛するクラブの危機を救おうと誓った。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全7回の6回目)
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2015年夏。FC東京が中断期間を利用して行ったドイツ遠征で、またも大怪我を負った。ブンデスリーガ・フランクフルトとの一戦で、左膝前十字靭帯を断裂。全治約8か月と診断された。そのとき34歳。度重なる大怪我に、ピッチを去ることも頭をよぎった。
「あんなリハビリをもうしたくないっていうのがあったんで、もうやめますって言ったんです。ガネさん(当時の大金直樹社長)にも言いました。けど、『もう一回冷静になって考えてみたらいいんじゃないか。チームとしてはもちろん復帰までサポートするし、ピッチに立ってほしいと思ってるから。決めるのはお前だけど、尊重するから』と言ってくれたんです。サッカー選手が引退する時は『死ぬ時だ』と思っているぐらいだったので。でも生かされているサッカー人生なので。まだやりきれていないなという決断に至ったんです」
だが、さらなる地獄が待っていた。2016年9月、FC東京U-23でのJ3リーグ・秋田戦で一度は復帰したものの、わずか2試合ですぐに再発。再び長期のリハビリ生活に入った。ピッチで選手としての価値を示せないもどかしさがより一層募った。去来する引退への思いと葛藤する日々。一方のチームも、16年の途中に城福浩監督が解任され、篠田善之監督が就任。迷走が続いていた。
「35歳の時に1年掛けてリハビリしてJ3に復帰したんですけど、2試合出てまたダメになっちゃって。散々『競争してピッチに立つことが価値だ』って言っていた選手が、出られないもどかしさ。もう自分で辞めるしかないなって思って、周りにも言ったんです。けど、『本当にそれでいいのか。最後ピッチに立つ姿を待っている人たちがどれだけいるのか知っているのか』っていう声もあって。やっぱり自分はピッチ立って、その姿を見せて引退したいなと思って、やるしかないなと腹を括って2017シーズンに入っていった感じですね」
2017年、FC東京は大久保嘉人、高萩洋次郎、林彰洋、永井謙佑ら代表レベルの選手たちを次々補強。大きな期待を背負って、リーグ制覇に向けて走り出した。だがチームは一体感を出せずに低迷。6月21日には天皇杯初戦でJ3長野パルセイロにPK戦の末に敗れた。迷走するチームを何とかしようと、サッカー人生をかけた“行動”に出る。
「そうそうたるメンバーを呼んで、リーグ戦を獲ると言って臨みましたけど、なかなか同じマインドにならなかった。練習に行く時も、帰ってきても、みんな暗い顔をしている。何が起きてるんだ?って。でも僕はずっと室内でリハビリしていて、ピッチにいない。その状況、温度感を感じられないもどかしさがありました。自分もリハビリはしているけど、復帰が見えなかった時に、6月に天皇杯で当時J3のパルセイロに負けたんです。そこで決断したんです、引退を」
シーズン限りでの引退をクラブに伝えた。発表の日は、フランクフルトで大怪我を負った日、そして妻の誕生日でもある8月2日に決めた。自らの引退を使い、空中分解しそうだったチームを救おうとした。
「チームがバラバラなのに、僕はそこに立ってないし、立つ目処もない。何かを変えたいと思ったんです。自分が引退を決めたからといって何が変わるか分かんないですけど、でも自分が一番覚悟をしていないなと気づいたんです。だから自分が最初に覚悟を示そうと。あるべき姿を示し続けることを大事にしていたのに、一番示していないのは自分だと。復帰してFC東京らしい姿を見せること、自分らしい姿を見せることを、ファンサポーター、そして自分に誓って。天皇杯の次の日に社長のガネさんに言ったんです。『考えてることがあります』って。で、発表をいつにするかって話になった時に『8月2日にさせてください』と小平で伝えました。自分で引退を決められる幸せもあれば、あれだけ追ってきた夢を自分から切り捨てるというしんどさの両方を感じながら、この組織のことを考えた時に、引退すべきだと行き着いたんです」
予想外だった安間貴義監督の決断
それまで一進一退を繰り返していた状態が、嘘のようにリハビリは順調に進んだ。12月2日にホーム・味の素スタジアムで行われるガンバ大阪戦での復帰を目指し、早る気持ちを抑えながら計画的に進めていった。
「引退を決めてから、トントントントンっていったんですよ。今まで覚悟がなかったわけじゃないですけど、覚悟を決めた人は強いなと。8、9、10、11月と4か月ぐらい。それまで復帰直前までいって再発するのを3回ぐらい繰り返して、1年経っちゃっていたので。本当にそこが難しくて。再発しないように注意しながら、各セクションと話をして、どの時期に練習復帰して、どのようにパフォーマンスを上げていって、最後試合に戻るか。最終節の3週間ぐらい前に練習に復帰して、そこから徐々に上げて、身体もしっくりき始めて」
土曜日の最終節に向けた1週間が始まった。火曜日は練習、そして水曜日には試合メンバー入りを左右する重要な紅白戦が行われることになった。そこで、当時の安間貴義監督の予想外の決断に驚かされることになる。
「サブ組の方のホワイトボードを見たら名前が書いてないんですよ。え、じゃあレギュラー組のベンチか?と思って見たんですけど、そこにもいない。『いないなぁ』と思って、先発組を見たらウタカとの2トップだったんです。僕もびっくりしましたけど、周りもびっくりしていて。『勝ち取ってレギュラー組のピッチに立て』と散々言ってきたし、それがあるべき姿だと思っていたから、自分の中では勝ち取ったと思えなかった。練習が終わった後、安間監督に言いに行ったんです。『勝ち取った人が試合に出るものだから、引退するからってしっくりきません』と。でも監督からは『お前の気持ちはよく分かる。でも最後は俺が決めることだから』と言ってくれて。理由を聞いたら、途中から出て、また痛めて代えるとなったら交代枠を2つ使うことになる。監督からすると、『それが一番使いにくいから、だったら最初から出て行けるとこまで行った方がいい』という言い方をしてくれたんです」
2017年12月2日、味スタ。G大阪とのJ1最終節の約束のピッチに、背番号18はスタートから立った。当初は背番号に合わせ、18分までの予定だったが、後半12分に永井謙佑と交代するまでピッチを駆け回った。
「最初から行って、本当に痛みがなかったんです。だから最初は18分ぐらいで交代かなと思ったんですけど、実際は50分以上出て。あの景色はもう自分の中でも今までにない。最後の最後までやめなくてよかったなと」
だが、これで終わりではなかった。翌日に駒沢陸上競技場で行われるJ3・FC東京U-23-C大阪U-23にも出場する予定だった。
「J1でこれだけ出ると思っていなかったので、『ヤバい、明日J3あるわ』って。クラブもいろいろ準備もしてくれていたので、行かなきゃと。(U-23の)中村忠監督は心配してくれましたけど、『身体バッキバキなんですけど、行きます』と言って、メンバーに入れてもらいました』
1点リードの後半38分、石川は2日連続のピッチに立った。その5分後に訪れた左からのコーナーキック。キッカーを務めた石川の右足から放たれたボールは、ピンポイントで原大智の頭へ。これがアシストとなり、有終の美を飾った。
「CKでアシストしてチームも勝って。だからそういうものも、分岐点じゃないですけど、移籍もそうですし、怪我もそうですし、引退の決め手もそうなんですけど、結局やっぱり、自分が納得して、決断をしたことが正解だったと思いたいじゃないですか。正解か不正解かなんて、決めた時点では分からないし、それを無理やりでも納得できるものに持っていくことが大事なのかなって。色んな人を振り回すし、色んな不安にさせるかもしれないですけど、その先にこんな景色が待っていたんだってなったら、これからまたそういう苦難が来た時にも踏ん張れるような気がして。それをサッカーを通じて見せられた、伝えられたというのは、選手として一番嬉しかった。価値のあったことかなって」
愛するクラブ、愛するサポーターのために、走り抜けた背番号18。現役生活の最後に得た代え難い経験が、引退後の指針となっていく。(第7回に続く)
(FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎 / Shintaro Inoue)





















