同学年のライバルから「追いつけないの?」 屈辱のコンバートも…元日本代表の“大逆転人生”

大橋正博との出会いから生まれたサイドへの転向
現役時代、横浜F・マリノス、FC東京でプレーした元日本代表MF石川直宏氏。横浜マリノスユースへと進んだ石川氏を待っていたのは、1人の絶対的なライバルの存在だった。そして1999年の横浜フリューゲルスとの合併が、ユースに所属していた石川にも大きな影響を及ぼすことになった。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全7回の2回目)
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横浜マリノスユースに進んだ石川を待っていたのは、新たな試練だった。追浜と新子安、2つのジュニアユースから選手が集うユースで、石川は1人の絶対的存在と出会うことになる。
「大橋正博が絶対的なトップ下でしたね」
後にマリノスのトップチーム、川崎フロンターレ、アルビレックス新潟でプレーすることになる逸材。ジュニアユース追浜では石川がエースでトップ下に君臨していた一方、新子安のエースが大橋だった。同じトップ下というポジションで、完全なライバルとなった。
「大橋は高1からもうずっと試合に出てましたけど、僕はもう全く出られなかった。出る場所がなかったっていうところで、樋口監督から『大橋がいて出られないし、サイドにポジション変えてみたらどうだ』って高2の途中に言われて。そこでサイドに転向したんです」
悩み、プライドは傷ついた。最初はこの提案を素直に受け入れることはできなかった。ただ、ここで石川は、この状況を前向きに捉え直し、考えを変えた。
「自分としてはあまり納得がいかなくて。大橋に負けたっていう感覚で。同じ年なんで、負けちゃえばトップに行けないじゃないですか。なので、最初は嫌だったんです。でも自分に言い聞かせるように、サイドに行けば使う側から使われる側になるので、使われる側の気持ちを理解できれば、トップ下に戻って大橋と勝負して、勝ってトップに上がれるんじゃないかと。そんなイメージを思い描きながら、サイドでの人生が始まりました」
いずれは本職に戻って大橋を超えてトップチームに上がるー。そんな野心を胸に、石川は新たなポジションでの挑戦を始めた。しかし、サイドでのプレーは一筋縄ではいかなかった。
「ジュニアユースでサイドをやったこともありましたけど、ずっとやってたわけじゃないんで、動き方も分からないし、タイミングも分からない。オフザボールの動きなんか全然分からないわけですよ」
ポジションが変わっても、石川を取り巻く環境は厳しいままだった。そんなある日、ライバルから浴びた一言が、石川の心に火をつけた。
「大橋がとんでもないスルーパスを出してくるわけですよ。『このタイミングで出すんだ』みたいなパスを。まだそんな足が速かったわけじゃないですし、追いつけないんですよ。そうしたら大橋に『ヘタクソだね』って言われて。『このボールも追いつけないの?』みたいな感じで言われるんです。カチンと思いながらも追いつけていなかったので……。追いつけるように自分が先に主導して動いて『お前、ボール出せねえのかよ』って言えるようになろうと」
身体の成長が周りに比べると、遅かった。フィジカルができあがり始めた高校2年の秋ごろから、スピードが上がり、サイドアタッカーとして覚醒していく。
「体がグーッと成長して落ち着いたタイミングもありましたし、サイドに転向して、オフザボールで走ることが多くなったので、自然とそれで走るのが速くなってきた。特に習ったわけでもなく、筋力トレーニングをしたわけでもないけど、自然と速くなっていって自分のプレーが確立されていきました」
身体的成長とポジション転向が絶妙にマッチした。スピードという武器を手に入れた石川は、サイドでの可能性を感じ始めていた。
「サイドが面白くなっていて、トップ下に戻るつもりはなくなっていました。大橋もいたので、自分はサイドで勝負するんだっていう思いが芽生えて、決めていました」
運命を決めた高校3年のクラブユース選手権
そんな中、高校2年の秋には大橋が、横浜フリューゲルスのユースに“電撃移籍”。ただ、クラブ側の評価は依然として厳しかった。
「大橋が移籍しましたけど、自分はトップ下に戻るつもりは全然なくて、サイドで面白かったんで。でもまだサイドでは結果が出ていなかった。高校3年生になる時に強化部や監督に『今のままじゃプロにはなれないから、大学受験や大学進学を考えろ』って言われてたんですよ」
この言葉が再び石川の反骨心に火をつけた。
「それでまたカチンときて。夏のクラブユースや全国大会が終わるぐらいでトップに昇格できるかが決まるんですけど、まだ半年以上ある中でダメだっていうレッテルを貼られたんです。『あと半年あるじゃねえか』と、そこで火がついて、絶対昇格してやると思いました」
そんな矢先に大激震が走った。1999年2月にマリノスとフリューゲルスが正式に合併。ユースチームも統合されることになった。前年途中にフリューゲルスに移籍していた大橋と再びプレーすることになり、さらにフリューゲルスユースの実力者たちが新たにライバルとしてチームに加わった。
「僕のポジションにもいい選手がいましたね。だから、夏前まで、また試合に出られなくなっちゃったんです」
だが石川の心は落ち着いていた。自身のやるべきことに集中していたからこそ、道は開けた。
「フリューゲルスと一緒になっちゃったとか外部的な要因を考えてたってしょうがないので。『なんでこのタイミングで』とかも思いましたけど、やれるだけやった上で結果を待とうと。春先には遠征でセンターバックをやらされたこともあって。『お前の動きはなってないから、後ろから自分のポジションを見てみろ』と当時の監督に言われて。よく分からないけどやるしかないなと」
運命が変わったのは、夏のクラブユース選手権の2週間前。同じポジションでレギュラーだった一つ下の後輩で、後にマリノスのトップに上がる飯田紘孝が怪我をしたことで、石川にチャンスが巡ってきた。
「『ここだ!』と思って全国大会に臨んだんです。自分で言うのもなんですけど、もう大活躍でしたね。自分が今まで思ってたことが全部できるというか。当時トップに昇格するのが決まっていたのは大橋だけで、他は決まっていなかったので。順位は5位だったんですけど、ここでアピールすると思って、めちゃくちゃ動いて、点に絡んで勝利して」
長い間、積み重ねてきたものが一気に花開いた瞬間だった。そこでの活躍が認められ、トップチームへの練習参加の許可が出た。実はこの時、膝の半月板を損傷する怪我を負っていた。それでも痛み止めを飲んだり、注射で血を抜いたりを繰り返しながらトップの練習に参加した。
「練習参加して何日後かに仮契約を結ぶことが決まって。もう10月ぐらいになっていたので、一番最後の方でしたね。大逆転だったと思います」
大橋正博という同級生との出会いがなければ、サイドアタッカーとしての石川直宏は生まれなかった。大逆転で掴んだトップチーム昇格。プロサッカー選手となった石川を待ち受けていたのは、またしても高い壁だった。(第3回に続く)
(FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎 / Shintaro Inoue)



















