元日本代表に刻まれた「ヘタクソだな」 練習初日に衝撃…“カチン”から始まった18年

取材に応じた元日本代表の石川直宏氏【写真:増田美咲】
取材に応じた元日本代表の石川直宏氏【写真:増田美咲】

石川直宏氏は現役時代、横浜F・マリノス、FC東京でプレーした

 現役時代、FC東京で長年にわたり活躍した元日本代表MF石川直宏氏が、「FOOTBALL ZONE」のインタビューに応じた。サイドを颯爽と駆け上がる姿は、多くのサッカーファンの脳裏に焼き付いている。現役時代だけでなく、引退後は農業に携わるなど、「自分らしく」を貫いている石川氏。その原点には幼い頃に育まれた反骨心があった。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全7回の1回目)

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 気づけば、いつも海にいた。いいプレーをした時も、うまくいかなかった時も。サッカー選手では珍しく趣味のサーフィンを公表し、周りから批判を浴びることもあったが、「自分らしく」を貫いてきた。

「最初はこっそりやってました。あんまり大っぴらにもしたくなかったので。それで怪我しちゃう可能性もあるし、まして試合も別に出てない中で何やってんだみたいな。でも僕にとっては、本当にリセットする場所でした。試合に出ていない時、もどかしい時に、サーフィンのつながりのある仲間だったり、自然が癒してくれた。僕の中ではリラックスしたり、マインドセットする上では結構大事でしたね」

 幾度の怪我も、苦境もあった。自分の気持ちに正直に選択してきたからこそ、プロサッカー選手として18年間を駆け抜けることができた。引退後もサッカーと農業をつなぐ自分にしかできない道を歩み続けている。そんな石川直宏氏の足跡を辿っていく。

 神奈川・横須賀育ち。幼少期は家にいることはほとんどなく、近所の三浦海岸や山が遊び場だった。山の中に基地を作ったり、池で釣りをしたり。この自然の中での遊びが、石川直宏という人間を形作った。

「海は親父が好きだったので、一緒について行ったり、自然と触れる機会が多かったですよね。サッカーを始めたのは5歳ですけど、それまでも野球やったり、鬼ごっこしたり、みんなと外で遊ぶっていう活発な幼少期だったと思います。自然の中で、自分たちで遊びを考えて、そこでちょっとこれやったら危険だとか、危険じゃないとか、そういうのは多分培われたかなと思いますね」

 そんな石川少年が、サッカーと出会ったのは年長になった5歳の頃。近所の2つ上の先輩がユニフォームを着て練習に向かう姿に憧れ、母親に「ちゃんとサッカー習ってみたい」と告白した。

 しかし、初回の練習での現実は厳しかった。

「幼稚園生は僕だけだったんです。1年生、2年生はいたんですけど、その中に僕は入っていた。なので当然、ヘタクソでした」

 リフティングも知らない。ドリブルもできない。そんな石川に、チームメイトが放った一言が、のちの日本代表選手の心に火をつけた。

「『こいつヘタクソだな』って言われたのを今でも衝撃的に覚えています。その一言にカチンときて。『そりゃそうだろ、初めてなんだし』みたいな。『この野郎!』と思って、絶対うまくなってやるってその時思いました」

 この瞬間が、人生のターニングポイントになった。反骨心に火がついた石川は練習に没頭。めきめきとその能力を高めていき、2、3年ほど経つと、あの時「下手くそだな」と言った先輩の実力を追い抜いていた。

「もうのめり込んでサッカーが大好きでしたし、うまくなっていく過程が、リフティングが1回、2回しかできなかったのが、一生懸命やればそれが5回になり、10回になり、自分の努力でうまくなっていく感覚が自分で感じられたので、それが楽しみの一つでしたね」

横須賀シーガルズから横浜マリノスジュニアユース追浜へ

 強豪の横須賀シーガルズで実力を磨くと、横須賀選抜には小学5年生の時から選ばれるようになった。6年生の時には当然のように、マリノスのジュニアユースの追浜と新子安から声がかかった。

「選抜チームを見ていたコーチ陣がマリノスの方だったりしたので、連絡をくれたんです。『追浜と新子安、どっち考えてんだ?』って。追浜までも1時間かかりますけど、新子安はそれ以上かかるんで。あとは当時あまり気づかなかったですけど、新子安は組織で戦うチーム、追浜は、監督が元静岡学園出身の方で、個人技を尊重するチームだったんです。それで追浜の監督から『セレクションはあるけど、流していいから』と言って頂いて、内定という形でしたね。でも地元では自分で言うのもなんですけど、ある程度レベルというか評価もいただいてたので、まあ入って当然だよねっていう感覚ではあったんです。でもそこからですね、大変だったのは」

 中学年代に上がったことで大きな壁となって立ちはだかったのが体格の差だった。入学当時の身長は145センチと一際、小柄だった。

「やっぱり身体が小さかったので、自分の思っていたプレーができないとかがありました。スピーディーなサッカーをする中で、自分がポツンと取り残されてる感じで、何したらいいか分からないし、ボールを持ってもすぐ取られちゃう。ボールを受けようにも相手のプレッシャーが早いので、そこの葛藤がずっとありながら試合に出ていたんです」

 監督やコーチは実力を認めてくれ、1年生から試合にも使ってもらっていた。当時はトップ下で、技術とキレで勝負するタイプだった。だが、思うようなプレーができていない中で試合に出場していることで、周囲の視線も気になった。

「監督も身体が大きくなればと可能性を含めて、試合に使ってはくれていたんですけど、周りの先輩とか同級生からは『あいつ何で出てんの?』みたいな。監督、コーチの評価と自分の評価の違い、ギャップがすごい苦しいなと感じましたね」

 横浜マリノスジュニアユース追浜で苦しみながらもプレーを磨いた。高校生になり進んだ横浜マリノスユースで、のちの人生に大きな影響を与える1人の同級生と出会うことになる。(第2回に続く)

(FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎 / Shintaro Inoue)



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