森保監督も会見で涙、日本代表の“敗戦”を見続けた記者…サッカーに愛情を注いだ68年の人生

代表をはじめ日本サッカーを観続けてきた六川亨氏がこの世を去った【写真:Noriko NAGANO】
代表をはじめ日本サッカーを観続けてきた六川亨氏がこの世を去った【写真:Noriko NAGANO】

六川亨氏は7月のE-1選手権も韓国で取材していた

 11月17日に行われたボリビア戦の前日会見、日本代表の森保一監督は急に試合以外の話を始めた。親交があったサッカージャーナリストの六川亨氏がこの日の朝に68歳で逝去されたことを明かし、その最後の言葉が「ガーナ戦、勝ってよかったね」だったと言ったところで監督は声を震わせた。

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 実はこの前々日、森保監督から六川氏の様子を尋ねられていた。そして今はもう寝ている時間が長く、面会に行った人たちも寝顔を見て帰っていることを伝えると、監督は表情を暗くし、奇跡の回復を願っていた。だが、その思いは叶わなかった。

 六川亨氏とは、いったいどういう人物だったのか。

 1981年、大学卒業を目前に控えた六川氏がサッカー専門誌でアルバイトを始めたころは、日本サッカー界にとって一番暗い時期だった。1964年東京五輪のために強化されていた日本代表は1968年メキシコ五輪で3位に輝く。

 ところが当時の強化選手層はあまりに薄く、主砲だった釜本邦茂氏(故人)が病気で日本代表に参加できなくなると、1970年メキシコワールドカップ予選は予選で敗退。1972年のアジア予選で敗退して以降、世界大会に出場できない時期が続いた。

 大学を卒業した六川氏はそのまま入社し、その専門誌の編集部で働き始めた。時を同じくして森孝慈氏(故人)が日本代表の監督に就任する。ドイツ留学で指導者としての資質を磨き、日本サッカー界の中で「日本の指導者の切り札」と目されていた森監督の躍進を、六川氏はつぶさに見る立場となった。

 というのも、当時の日本代表は注目度が低かったため、記者になりたての六川氏が取材することになったのだ。1981年5月に森ジャパンの初合宿が行われたとき、千葉県検見川の練習場に行き、その後ずっと取材を続けることになる。

 森ジャパンは着実に力を付け、1983年9月に始まった1984年ロス五輪予選で1次予選を突破。最終予選に駒を進めた。だが、大会前の合宿に取材に行った記者は専門誌2社だけ。当時、通信社や新聞社は来ていなかったという。そのため、選手を合宿所から連れ出して撮影したり、監督に神社でお祈りしている姿を撮影させてもらったりと、いろいろ融通が利いたそうだ。

 最終予選はシンガポールで集中開催された。現地で取材していた六川氏は、目の前で日本が4連敗し、敗退する様を見ることになった。それでもその後の1986年メキシコワールドカップ予選では、森ジャパンは韓国との一騎打ちに勝利すれば本大会出場を勝ち取ることになるところまで躍進した。

 しかし、ホームアンドアウェイの対戦で日本は連敗してしまう。六川氏はソウルで韓国のビクトリーランを見ることになった。そのとき、六川氏が取材のためにロッカールームに向かおうとするが動線が用意されておらず、グラウンドから突っ切ろうとしたときには、警官から銃を向けられるという危険なはめになったそうだ。

 別の警官が発砲を止めてくれたおかげで無事ロッカールームにたどり着いた六川氏は、敗戦直後で選手たちが泣きじゃくる姿やコメントを取材した。それまでにチーム全員としっかり信頼関係が築けていたからこその記事が、そこに出来上がった。

 その後も六川氏は日本代表の敗戦を現地で見続けた。ときには記事は情緒的で、見上げた空に浮かんだ中東の月の描写から始まり、目を落としてピッチを見たときに飛び込んでくる電光掲示板の日本敗戦のスコアから試合内容に続くという、今ではないような文学的な香りのする原稿だったりもした。

「明日のスタメンを教えてください」

 一方で批判記事は直球勝負だった。自分の思ったことはそのままぶつける。それでも森保監督が六川氏について「批判的なこともたくさんいただきましたが、本当にサッカーファミリーとして日本サッカーの発展に大きく貢献していただき、本当に感謝の思いでいっぱいです」と語ったほど、サッカーへの愛情に満ちていた。

 六川氏はいくつかの専門誌の編集長を歴任し、2010年にフリーランスとして独立。世界各国に赴いて取材を続けた。2022年、肺がんが発覚したときに医者から肺の切除を提案されたが、取材現場に行けなくなることを拒み、投薬による治療を選択した。

 日本代表の記者会見にもいつでも顔を見せ、試合前日の会見でストレートに「明日のスタメンを教えてください」とにこやかな声で質問し、森保一監督が思わず笑っておおよそのメンバーを答えるなどの一幕もあった。

 人には知らせていなかったが、当時六川氏はガンのステージ4だった。それでも現場には顔を出していた。7月に韓国で開催されたE-1選手権でも取材していたが、大会途中で体調が悪化し、韓国戦が見られなかったのは無念だっただろう。

 9月に「励ます会」が開催されたとき、報道関係者だけではなく、サポーターや各団体の関係者、クラブ関係者など、大きなレストランを貸し切りにしなければならないほど、多くの人たちが集まった。そのときは、誰も2か月後、こんな早いお別れが来るとは思っていなかったと思う。最後の最後まで六川氏はサッカーとともにあった。きっと「ボリビア戦も勝ってよかった」と思っていらっしゃるに違いない。

(森雅史 / Masafumi Mori)



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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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