試合中に手足にしびれ「イチ、検査を受けた方がいい」 18歳で選手生命の危機…診断結果に「ホッとした」理由

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:市川大祐(清水エスパルス・トランジションコーチ)第3回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!
FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。クラブと代表で濃厚すぎる1年を過ごした市川大祐の体には異変が起こっていた。当時のサッカー界では馴染みのなかったオーバートレーニング症候群。選手生命の危機に瀕し、ワールドユース欠場という大きな決断を下すことになる。(取材・文=二宮寿朗/全5回の3回目)
◇ ◇ ◇
市川大祐にとって1998年はあまりに濃すぎる1年だった。
清水エスパルスユースの高校3年生で颯爽とJリーグデビューし、そのまま日本代表に呼ばれて韓国代表とのアウェーマッチにおいて17歳322日で最年少出場記録を果たす。フランスW杯の最終選考まで残り、本大会にはサポート役で帯同。帰国してからもエスパルスでコンスタントに出場を続けた。
目標は日韓W杯へと切り替わっていた。前倒しでチャンスが来ただけであって、もともとは2002年を目指していた。だがフランスの舞台を直に自分の目で、その距離感をつかめただけでも収穫だった。
「フランスではベンチに入って試合も見ることができましたし、ミーティングにも入らせてもらいました。ハーフタイムにはピッチのなかでボールを蹴ることもできた。ただベンチからタッチラインまでそんなに距離がないのに、何だかすごく遠く感じたんです。この距離をあと4年で縮めて、ワールドカップのピッチに立たなきゃいけないんだなって」
その思いがあるからこそ、試合が続いてもオフがなくともまったく気にならなかった。世代別の代表としてAFCユース選手権、アジア競技大会にも参加する。天皇杯は決勝まで進み、このシーズンを最後にチームが消滅する横浜フリューゲルスに敗れた。一つひとつクリアしていった先に成長がある。そう信じて毎日を過ごした。
多忙なスケジュールの合間を縫って、高校の授業にも通わなければならなかった。
「代表活動の時は公欠扱いにしてくれるんですけど、それ以外のところとなる出席日数が足りなくなっていて。そのため先生たちが足りない分を補習してくれました」
まだプロにもなっていない18歳の少年。自覚症状はないものの、過度のプレッシャーと戦ってきたのも事実であった。目に見えない疲労が、ずっと積み重なっていた。
異変を感じたのはトップチーム昇格を果たす翌1999年に入ってのこと。学校の補習もあってトップチームのキャンプに参加せず、ユースで調整を続けた。しかし調子が一向に上がっていかない。トップチームに合流してからはますます体が重く感じるようになった。夜も眠れず、悪循環に足を踏み入れている嫌な感覚が続いた。
「原因が分からない以上、自分のせいだと思っていました。どこか気持ちが緩んでしまっているとか、練習に対する取り組み方が良くないんじゃないかとか。だからもっとやろうとすると、逆に悪くなってしまって。サテライトリーグの試合に出た時、手足がしびれてきて、走ろうと思っても走れなくなっていました」
知らず知らずのうちに自分を追い込んでしまっていた。
オーバートレーニング症候群を発症…ワールドユース辞退という決断
異変を察知したのがオズワルド・アルディレスの後、コーチから監督に昇格したスティーブ・ペリマンだった。「これはおかしい。イチ、検査を受けたほうがいい」と、すぐ病院へと送り出した。
「トレッドミルで呼吸代謝の数値を測りました。段々とスピード、傾斜を上げていくなかで15分間測定するのに、5、6分で先生がストップしたんです。理由を尋ねたら、『これはもう完全にオーバートレーニング症候群だよ』と言われました」
陸上の長距離界では当時から認識されていた病名で、担当医は長距離を走る山梨学院大の部員の診断もしていた。しかしサッカー界ではまだ馴染みがなかった。少なくともJリーガーにその事例はなかった。
「医師からは、一般の人以下の体力になっていると言われました。トレーニングをすれば栄養と休息で回復していくんですけど、そもそもその回復能力がない。疲れた地点からまたトレーニングを始めてしまうと、どんどん悪くなっていくんだ、と。そうなっていくと心の状態もどんどん悪くなっていくとも説明を受けました。治すには休むしかない。このままだったら選手生命が終わってしまうとも言われて……。でもショックとかじゃなくて、心の中からの第一声は『ああ、良かった』でした。体が動かないのは、自分が甘いからだと思ってきた以上、病気だったんだと分かってホッとしたんです。病気を告げられて安心するっておかしな話かもしれないですけど、楽になった気がしました」
ペリマンはじめチームも理解してくれ、市川には休息が優先された。ただ一つ気掛かりだったのは、4月に控えるワールドユース選手権(現U-20W杯)だった。主力として期待されていた市川は福島のJヴィレッジで行われた3月の国内合宿メンバーにも選ばれた。病気を理由に辞退を申し出たもののフィリップ・トルシエは説明を求めてきたという。そこで市川は清水から5時間掛けてJヴィレッジに向かい、トルシエに自らの言葉でワールドユースに行く意思がないことをはっきり伝えた。
「トルシエさんからは『ワールドユース、行けるのか? どうなんだ?』と聞かれたので、『もちろん行きたい気持ちはある。やりたい気持ちはある。でも自分としては行けない』と言いました。医師から休養が必要で、無理したら選手生命が終わってしまうと説明を受けたことも。そうしたら無言で部屋から出ていっちゃいましたね」
トルシエもショックだったことは言うまでもない。しかしながら日韓W杯を目指して一つの通過点としていたワールドユースを辞退することが、市川にとってどれほど大きな決断だったか。できることなら行きたい。でもここで無理をしてしまったら、チームにもきっと迷惑を掛けてしまう。そしてW杯の夢まで潰えてしまう。市川は唇を噛みながら、帰路を急いだ。ワールドユースへの思いを断ち切るように。
1か月にわたって休息を優先させ、体力の回復に務めた。その間、小野伸二、稲本潤一、本山雅志、高原直泰ら若きタレントが並ぶU-20日本代表はグループステージを1位で突破すると、ポルトガル、メキシコ、ウルグアイを破ってスペインが待つ決勝まで進出する。準優勝に終わったとはいえ、“ゴールデンエイジ”と称されるこの年代の選手たちに俄然、注目が集まるようになる。市川は試合を見ることを避けていた。どうしても悔しさがこみ上げてしまうからだ。
エスパルスでも試合から遠ざかったことには我慢も必要だった。無理をしたがる自分を諫めるだけでも大変だった。休息を取ることだってトレーニング。そう言い聞かせて、じっと回復を待った。
ようやく体に力が溜まっていくような手応えを感じ取っていく。市川大祐の反転攻勢が始まろうとしていた。
(文中敬称略/第4回に続く)
■市川大祐 / Daisuke Ichikawa
1980年5月14日生まれ、静岡県出身。清水エスパルスユース所属時の1998年3月に17歳でJリーグデビューを果たし、1999年のJ1リーグ2ndステージ優勝、アジアカップウィナーズカップ1999-2000優勝に貢献。2010年の退団まで、チームの右サイドを支え続けた。日本代表には1998年に歴代最年少の17歳322日でデビュー。2002年の日韓W杯にも出場し、グループリーグ第3戦のチュニジア戦では中田英寿のゴールをアシストした。2016年の引退後は指導者に転身し、25年から清水エスパルスのトランジションコーチを務めている。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。





















