欧州移籍話が立ち消え“疑心暗鬼”へ 監督と衝突も…人生を変えた最終試合「本当だと思えなかった」

大宮のオリオラ・サンデー【写真:森田直樹/アフロスポーツ】
大宮のオリオラ・サンデー【写真:森田直樹/アフロスポーツ】

紆余曲折あった中学時代のサンデー

 10歳の時、初めてクラブチームに加入したFWオリオラ・サンデーだったが、すぐに試合に出られるようにはならなかった。それでも13歳になったころに「才能があるから、別のチームに移籍した」と家族も説得され、ベニンのクラブからアブジャにあった姉妹チームに移籍する。(取材・文=河合拓/全6回の2回)

【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!

   ◇   ◇   ◇   

 車で8時間ほど走った距離のアブジャでは、何人もの選手たちと同じアパートの部屋で寝泊まりをした。午前中は中学校に行き、午後はサッカーをする。数か月に一度、1週間から2週間のオフが与えられた時にパスでベニンに住む家族のもとに帰ることが楽しみでならなかった。

「ホームシックには、めっちゃなりました」というサンデーが、特に困ったものが食べものだった。料理人はいなく当番制で順番に料理をしていたが、多くの選手は料理未経験。とても食べられないようなものが、出てくる時もあった。

「順番に27人分の料理を作っていました。なかには料理がうまい人も1人だけいて、その人の時はみんな楽しみだったし、その人がいたから頑張れた。でも、おいしくないことが多くて、あまりにおいしくなくて食べられない時は、自分でパンとか何かを買わないといけなかった」

 家族に電話をかけて、仕送りを頼むこともあったが、母には「今回はお金がない」と断られることもあった。当時はプロではなく、スパイクなどの用具も提供されない。生活が楽ではないなかで母に買ってもらわなければいけなかった。

 当時のチームは試合のたびにセレクションが行われるような感じだったという。多くのスカウトが試合を見に来て、そこで活躍すればオファーをもらえ、チャンスを掴む選手もいた。しかし、声をかけられたものの話が進まないことも珍しくはなく、サンデーも何度もそうした目にあった。

「オレも何回も話があって『トルコに連れて行くよ』とか言われました。最初はウソをつかれると思わないから『よかった。これでプロのサッカー選手になれる』と思うんですけど、最後に立ち消えになる。そういうことが続くと、だんだん信じられなくなっていくんです」

一度は考えた就職

 開けたかに思われたプロサッカー選手への道が閉ざされる。そんなことが続いたこともあり、自分はサッカー選手になれないのではないかと疑心暗鬼になり、スカウトも信じられなくなっていったという。中学校の卒業が近づくにつれて、サンデーは卒業と同時にサッカーをやめて就職しようと考えるようになった。

「ママには『中学校を卒業したら、サッカーをやめる。高校にも行かない。車を修理する勉強をして、家計を少しでも支えたい』と言っていました。オレはサッカーをさせてもらっていたけれど、家を出てから2年間、環境がまったく変わらなかった。その間、ママの手伝いも何もできなかった。仕事をしたらちょっとはママの助けになるから、サッカーはそこでやめるつもりでした」

 この時、サンデーの姉がナイジェリアを出て、海外の大学に留学をしていたこともサッカーを辞めるという決断に影響していた。彼女が大学を卒業して現地で就職し、金銭的に余裕ができたら家族を呼んでもらえる。ナイジェリアでサッカーを続けるのは大変だし、その時にその国でサッカーを始めればいい。そんな風に将来を思い描いていたのだ。

 中学校の卒業が近づいたなかでも、サンデーの進路は決まらなかった。そして中学校年代、最後の試合を控える直前に大きな出来事が起こる。チームが機能しないのは、サンデーのせいだと監督にプレーをボロクソに批判された。「自分ではめっちゃ一生懸命やっているつもりだった」サンデーは納得できず、『もうサッカーは終わり。おしまい』と、最後の試合に出ないまま、チームをやめる決意をして自宅に帰った。しかし、これを知った友人たちが家の前に集まり「最後の試合だけは行こう」「監督に言われたことは忘れて、一緒にやろう」と説得しにきた。

 生活も一緒にしてきた仲間に何と言われても、ピッチに立つ気にはならなかった。「自分はもう、どうでもよくなっていた」サンデーは、仲間にもきっぱりと「いや、オレは行きたくない」と伝えた。しかし、このやり取りを見ていた母が、「最後なんだから行ってきなさい。この試合が終わって何もなければ、車の修理の勉強を始めたらいい」と息子を説得する。はじめは断っていたサンデーだが、母の熱意に押される形で、中学生として最後の試合に出ることになった。

最後の試合で大活躍し、日本のスカウトの目に留まった

 監督に対する怒りもあったサンデーは、この試合で見事な結果を残す。ハットトリックの大活躍を見せて、圧倒的な存在感を放った。そして、どういう巡りあわせか、この試合に日本人のスカウトが見に来ていたことで、サンデーの人生は大きく動く。

 試合が終わると、すぐに日本人スカウトはサンデーの監督のもとに行き「この選手を連れて行きたい」と熱っぽく語った。直接、声をかけられたサンデーだが「またか。どうせいつものようにダメになるのだろう」と、本気にできなかった。

 そのスカウトはすぐにさまざまな契約書を取り出し、「サインしてほしい。これでほかのスカウトに連れて行かれたら、私の立場がない」と言ってきたという。おそらく仮契約書と思われる書類にサインをしても、「1週間くらいは本当だと思えなかった」という。だが、その後も日本人のスカウトが家に来て、さまざまな書類にサインをしていくうちに、「これはガチの話だ。これで人生が変わる」と信じるようになっていった。

 この1年前、サンデーを初めてサッカークラブに入れてくれたオタボー・ケネスが日本から来たスカウトの目に留まり、高知中央高等学校へ進学して活躍していたことから、スカウトはサンデーが所属していたクラブに足を運んでいたのだった。そして、この試合での活躍によってサンデーは、国際コースに留学生を迎え入れようとしていた福知山成美高校に進学することとなった。

 そうした伏線があり、日本行きが決まったサンデーだったが、当時は日本について何も知らなかった。「日本も、韓国も、中国も同じ国で場所が違うだけだと思っていました。ジャパンタウンとか、コリアタウンとか、チャイナタウンとか、そういう感じだと思っていた」という。「でも、初めて日本に来た時に『日本人と中国人の顔は、全然違うな。日本人の顔は薄いな』って知りました。歩き方とか、ちょっとした仕草も日本人と韓国人と中国人では全然違う」と、今では明確に日本人かどうかも見分けられるようになったという。

(河合 拓 / Taku Kawai)



page 1/1

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング