W杯後にドイツ移籍も…「後悔しかない」 ボヤけた目標設定、オフに伝えられた「もう戻ってこなくていい」

矢野貴章が振り返るドイツでの経験
日本代表として2010年の南アフリカ・ワールドカップにも出場し、ドイツ・ブンデスリーガのフライブルクでプレーをしたFW矢野貴章。41歳になった今でも現役を続ける大ベテランのキャリアについて話を聞いた。第4回はフライブルクに移籍をしたブンデスリーガでの経験について。(取材・文=元川悦子/全8回の第4回目)
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2010年南アフリカワールドカップ(W杯)でベスト16進出を果たしたものの、パラグアイにPK戦で苦杯を喫した日本代表。この直後にはメンバー入りできなかった香川真司(セレッソ大阪)がドイツ・ブンデスリーガのボルシア・ドルトムント、出番なしに終わった内田篤人(解説者)がシャルケへそれぞれ移籍。南アで活躍した長友佑都(FC東京)がイタリアのチェゼーナ、川島永嗣(磐田)がベルギーのリールセに移籍し、新たなキャリアをスタートさせた。
同じタイミングで矢野もドイツ・ブンデスリーガのフライブルクへ移籍。彼は2006年のアルビレックス新潟移籍後、中田英寿をサポートしていたマネージメント会社・サニーサイドアップと契約。その時点から「海外移籍予備軍」と目されていた。もっと早く外に出ていてもおかしくなかったはずだ。
「サニーサイドアップとの契約は知り合いを通して接点が生まれたのがきっかけです。僕自身はヒデさんに対して選手としても人間としてもすごく憧れを抱いていたし、その会社にマネージメントしていただけるのならぜひ入りたいと思って決めました。海外移籍を見据えていたのも確かです。
実際に、南アW杯の前年だった2009年にドイツのデュッセルドルフへ行く話はありました。でもその年の新潟がすごく調子がよかったし、W杯の1年前に移籍することにはリスクも伴う。そういうことをいろいろ考えた結果、行かないという選択をしましたね」と矢野は表に出ていないエピソードを話してくれた。
そういった過去があったからこそ、南ア直後のフライブルク移籍に迷いは一切なかったはず。しかしながら、2010-11シーズンは15試合出場にとどまり、得点もゼロ。セネガル代表だったFWパピス・シセ、ドイツ人FWシュテファン・ライジンガーという2人の選手に阻まれ、出番を増やすことは叶わなかったのだ。
「日本代表の時と同じで、自分の中では一生懸命やっているつもりですけど、こうやって時が経ってみると、単純に覚悟が足りなかったし、甘かったなと思いますね(苦笑)。僕にとってW杯は長年の夢でしたけど、その舞台に一応行けたという意味で、目標を達成していました。そこで『次の目標が何なのか』というところがハッキリしなかった。その辺がボンヤリしてしまって、本当に今になると後悔しかないです」と彼は神妙な面持ちで言う。
南アW杯落選を糧にもう一段階飛躍するという野心に満ち溢れていた香川は、10-11シーズン・ドイツ・ブンデスリーガ1部で序盤から大ブレイク。後半戦こそ負傷で離脱を強いられたが、1年目からリーグタイトルを獲得した。矢野のような立場に置かれた内田にしてもシャルケでは同シーズンのUEFAチャンピオンズリーグベスト4入り。一気に注目度を高めていた。長友にしても、わずか半年でインテルへのステップアップを勝ち取っていく…。そんな後輩たちの姿を間近に感じながら、矢野は難しいドイツ1年目を送っていたのだ。
「フライブルクでは試合に出ることが本当に難しかったですね。でもチャンスはあったと思う。それを僕がつかみきれなかったというだけ。そこも覚悟の無さなんです。もちろんブンデスは190センチを越えているDFばかりいましたし、フィジカル面やコンタクトの部分でも日本にいる時のようにはいかなかった。
彼らは骨格も違いますし、パワーと高さで勝てないのは事実。そこで駆け引きとか俊敏性とか、連続した動きとか、いろんなことが必要だったと思います。自分の場合も『やれないことはないけど、なかなか思うようにいかなかった』というのが実情ですね。努力が足りなかった。それに尽きます」と彼は厳しい表情を見せていた。
そして迎えた2011年夏。フライブルク2年目のシーズンは指揮官がロビン・ドゥットからマルクス・ゾルクに代わった。その新指揮官に矢野は想定外の冷遇を受けることになった。
「2年目は監督も代わって心機一転、頑張ろうと思って自分なりに合流しました。でも全くチャンスがなくて、一度もベンチ入りできなかった。
そのまま前半戦が終了し、ウインターブレイクに入りました。僕はいったん日本に帰り、2012年が明けて、1日か2日にドイツに戻ろうとしました。そしたらクラブから連絡があって、『もう戻ってこなくていい』と。まさかそこまでの扱いを受けるとは思いませんでした。
その後、ドイツに戻りましたけど、『練習に来なくていい』と言われて、アカデミーの選手とトレーニングする日々を過ごしていました。まさに海外あるあるですね(苦笑)」
矢野が言うように、海外では監督が構想外の選手をトップチームの練習から外すことは日常茶飯事だ。マルセイユ時代の中田浩二(鹿島FD)もそういう苦い経験をしているし、長谷部もフェリックス・マガト監督と移籍をめぐって意見が食い違った2012年夏から秋にかけて出場機会がなかった。
「こういう話は日常茶飯事じゃないですか。日本では選手全員が練習に参加して、競争していく環境が普通ですけど、海外ではそうじゃない。それを知ったということで、今になればいい経験だったと思います」
そうやって矢野が切り開いた道を、堂安律(フランクフルト)、鈴木唯人(フライブルク)といった10歳以上年下の後輩たちが歩んでいる。堂安はフライブルクでステップアップを実現させ、鈴木も今、スタートラインに立ったばかりだ。
「自分は何の実績も残していないんで、道を切り開いたなんて言える立場じゃないけど、その時できることをやっておかないと後々、後悔する。それだけは言えますし、自分にできることは全てやるべきだとも思います」
あえて先人のいなかったクラブの門を叩き、もがき苦しみ続けた矢野の言葉は重い。こういう選手たちがいたからこそ、今の日本人大量海外移籍時代が到来したのは確か。14~15年前のチャレンジを我々は改めてリスペクトすべきだ。(第5回に続く)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。





















