本田圭佑がユニフォームを脱ぎ寂しげに 11年前の記憶…ファインダー越しに見たブラジル戦

印象に残った2つのブラジル戦を回顧
1989年の初対決から日本代表が重ねてきた、これまでのブラジル代表との対戦成績は2分11敗。日本はいまだ勝利を挙げておらず、10月14日に行われる東京スタジアムでの試合で、初勝利を目指すことになる。そこで近い過去の対ブラジル戦から印象に残っている試合をピックアップし、サムライブルーの現在地を確認してみたい。(取材・文=徳原隆元)
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まず記憶に残っているのは、今回の試合からちょうど11年前となる2014年10月14日にシンガポールで行われた対戦である。ブラジルは至宝ネイマールが、チームの全得点となる4得点を叩き出す活躍を見せたのに対し、日本は最後までセレソン(ブラジル代表の愛称)の牙城を崩すことができず0-4と完敗を喫することになる。
日本はスコアと内容の両面で総崩れとなった。就任したばかりだったハビエル・アギーレ監督はブラジル戦の直前に新潟で行われたジャマイカ戦(1-0)で主力を投入。続くブラジル戦は大幅にメンバーを入れ替えて試合に臨んだ。当時の中心選手であった本田圭佑や長友佑都をベンチスタートさせ、エンジンがかからないままブラジルとの力の差を見せつけられた。チームの最終目標である18年W杯ロシア大会での好成績を見据えて、新たな選手の発掘が必要だったことは理解できる。
一方のブラジルは宿敵アルゼンチン代表戦(2-0)をこなしたあと、そこで先発したネイマールやオスカル、ジエゴ・タルデリといった主力の攻撃陣が、日本戦でもスタメン出場していた。
カメラのファインダーを通して、この対戦でもっと印象に残っているシーンは試合終了後、後半から出場した本田がユニフォームを脱ぎスタンドのサポーターへと挨拶に行く場面の表情だ。チームの完敗と自らが活躍できなかった感情がない交ぜになった、寂しげな表情がこの試合における日本の不完全燃焼を物語っていたと思う。
もうひとつは22年6月6日、細雨に濡れた東京・国立競技場で行われた試合だ。
試合を控えたブラジルの練習から見えてきたものは手堅さだった。実戦形式の練習では、相手(リザーブ組)のGKからDFへボールが出されるとFW陣が追い込んで行き、直接ボールを追っていない中盤以降の選手もチーム全体のバランスを崩さないように動きを連動させていた。前線の選手がボールを奪えば、そこから素早く逆襲を仕掛ける動きを繰り返していた。

世界最高峰のテクニックで日本を翻弄したブラジル
実際に練習を見たことで、ブラジルはかつてのこれでもかと個人技で相手守備網を切り崩しにかかるスリリングな香りが漂っていたサッカーから、現代サッカーに適合した手堅い試合運びで勝利するスタイルへと、モデルチェンジをしていることを改めて実感させられた。
パス、トラップといった基本テクニックが正確で、そのうえ流れるような素早い攻撃を仕掛けるサッカーを展開された日本は、つけ入る隙がなく0-1で敗れることになる。ブラジルの試合巧者ぶりが光った90分間となった。
近年のブラジルは世界の潮流に合わせるように堅実さが増したことにより、かつてのような圧倒的だった攻撃力に影が差していることは否めない。だが、いつの時代でもオーセンティックな強さを持つサッカー大国であることは、誰もが認めるところだろう。
そのブラジルを迎え撃つ現在の日本だが、14年のチームと比較すればメンバー全体のレベルは上がっていることは間違いない。22年カタールW杯以降、チームを構成する選手たちによる世界での活躍はさらに増え、代表史上最強の呼び声も高い。
だが、今回はコンディション不良によって攻撃のエース三笘薫が不在。攻守のリーダーである遠藤航と守備の要の板倉滉も、怪我のため直前になって招集を辞退し、さらにディフェンス陣には本来ならメンバーに加わっているはずの選手たちもリストにいない。
今回のサムライブルーは果たしてどんなメンバーで、どういった戦術で強豪ブラジルに立ち向かうのか。攻略は一筋縄ではいかないだろうが、ベストメンバーで試合に臨んでほしいところだ。
(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。





















