再契約もクビ、アキレス腱を3度断裂 悲劇の連続…壮絶なサッカーキャリア「オレみたいな経験してほしくない」

現役当時の船越優蔵氏(画像は2003年、新潟所属時)【写真:アフロスポーツ】
現役当時の船越優蔵氏(画像は2003年、新潟所属時)【写真:アフロスポーツ】

U-20日本代表を率いる船越監督が歩んだ紆余曲折の現役時代

 1993年8月に日本で開催されたU-17世界選手権(現・U-17ワールドカップ)で、U-17日本代表の中心選手は船越優蔵だった。味方はボールを持つと、とにかく船越にボールを届けようとしてくれた。しかしそこで形成されたプライドが船越の成長を邪魔した。すべてが自分の責任だと気付いたのは22歳、1999年末にベルマーレ平塚から契約満了を告げられ引退の危機を迎えたときだった。(取材・文=森雅史/前後編の後編)

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 しかし、それでも船越に期待を寄せてくれた人がいた。J2に降格し、ベルマーレ平塚から湘南ベルマーレへと生まれ変わったチームで指揮を執ることになった加藤久監督が「もう一度やってみないか」と声をかけてくれたのだ。自分を切ったクラブに戻るのか。

 プライドが高かった時代なら決してしなかっただろう。だが船越は頭を下げて練習場に戻ることにした。ただし、最初の立場は練習生。わずかな期間で成果が出せなかったら契約してもらえない。それでも船越はそのチャンスに掛けた。

 加藤監督は船越に厳しい肉体改造を指示した。船越だけが別メニュー。だが、船越はそのメニューをこなした。トレーナーがつきっきりだったので、サボろうと思ってもサボれなかったのも良かっただろう。船越の真面目な態度を見てクラブはシーズン直前にもう一度1年契約を結んでくれた。

 それでも肉体改造の成果が出る間にシーズンが終わり、昇格できなかったことで加藤監督は解任となる。船越も再び契約満了となった。しかし、今度はJ2の大分トリニータから声をかけてもらえた。対戦したときの自分のプレーを見てくれたからだった。

 ただ2001年の大分はシーズン途中で監督交代するなどチームそのものが揺れ動いていた。一方で船越は自分の体が思い通りに動けるようになった手応えを感じながらプレーしていた。そして27試合に出場し9得点を挙げる。シーズン終了後にはJ2のアルビレックス新潟から声がかかり、移籍することとなった。

 2002年、日本中が自国のワールドカップに熱狂していた中で、船越は転換期を迎えていた。リーグ戦全44試合のうち34試合に出場。7ゴールを挙げた。チームの中で頼られる存在となっていた。

 ところが好事魔多し。チームが昇格に向けてラストスパートを切った10月23日の古巣大分戦、船越はアキレス腱を断裂する。船越のシーズンは終わった。チームは結局3位に終わり、惜しくも昇格を逃したのだった。

 2003年、船越は長いリハビリから復帰し再び前線に戻った。そして新潟はついにJ2リーグで優勝し、J1に初昇格をつかみ取る。船越は1999年以来5年ぶりのトップリーグでのプレーすることになったのだった。

何度もアキレス腱を断裂し離脱

 昇格初年度の2004年度を無事残留で乗り切り、張り切って迎えた2005年、5月に再び船越を悲劇が襲う。カップ戦に出場したとき、またもアキレス腱を切ってしまったのだ。翌日にはすぐ手術。またリハビリの日々が始まった。

 そのとき、船越は焦っていた。船越の契約はこの年まで。クラブが選手に翌年の契約の意志を伝える期限となっている11月30日までには復帰してプレーできるところを見せなければいけない。クラブが不安に思っているのを感じ取っていた。そしてやっと復帰したとき、またもアキレス腱が部分断裂してしまった。

 クラブは温情を見せて2006年の契約を提示してくれた。しかし2006年一杯で5年間籍を置いた新潟を去ることになった。

 そのとき船越に声をかけてくれたのは、ラモス瑠偉監督だった。東京ヴェルディを率いて2年目。2006年は7位で2007年は昇格に賭けていた。FWはフッキを軸に据え、船越はオプションという扱いだったが、それでも船越は喜んで緑のユニフォームを身に纏った。

 迎えた2007年の開幕戦、船越は開始1分でゴールを決める。そのままの調子で開幕から5試合で3ゴール。だが、フッキが調子を上げてきたため、次第にベンチに座る時間が増えていった。

 それでも船越はくさらなかった。第51節、フッキの出場停止で先発のチャンスを掴むと2ゴールを挙げる。船越は自らのゴールを喜びながらも、ケガで出場できなかったチームメイトの名波浩を指差し、感謝の念を表した。そしてこの勝利で東京VはJ1復帰をほぼ確定させた。

 船越はその後2009年まで東京Vでプレー。2010年には神奈川県リーグのSC相模原でプレーし、その年に引退した。

 指導者を目指そうと思った船越は、古巣新潟の門を叩いた。そしてトップチームのコーチになるのではなく、U-13というカテゴリーを選んだ。「育成年代」の選手たちを担当することで、人としての幅を広げようとしたのだ。あえてトップチームのコーチを希望しなかったところが、船越が指導者という立場に対してしたから積み上げていこうという思いも持っていることを表していた。

 船越は厳しいトレーニングを課しながら若い選手たちにこう語っていたという。

「オレが言っていることは、今の君たちには伝わらないかもしれない。でも、いつか『ああいうこと言っていたな』と思い出してくれていい。オレは、オレみたいな経験をしてほしくないから今厳しく『やれ』と言っているんだ」

 その後、S級コーチライセンスも取った。「違った形で勝負もしていきたい」という願いを確実に形にしている。U-20日本代表の選手は船越を「本当に熱い監督」だと笑顔を見せながら語る。こんな苦労人だからこそ、今後は明るい未来が待っているのかもしれない。

(森雅史 / Masafumi Mori)



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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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