家に来たスカウト…抱いた憧れ「絶対勝てない」 「親は複雑だったと」プロで戦った兄弟

かつてJリーグでプレーした太田圭輔氏と太田吉彰氏の太田兄弟【写真:河合 拓】
かつてJリーグでプレーした太田圭輔氏と太田吉彰氏の太田兄弟【写真:河合 拓】

静岡ダービーで対戦した太田圭輔氏と吉彰氏、対談で明かしたお互いの思い

 今年6月10日に行われた北中米ワールドカップ(W杯)アジア最終予選のインドネシア戦では、佐野海舟と佐野航大が兄弟そろって出場を果たして話題となった。兄弟プレーヤーが注目を集めたが、かつてJリーグでプレーした太田圭輔氏と太田吉彰氏の太田兄弟は、どのような幼少時代を過ごしてプロになったのだろうか。(取材・文=河合 拓/全2回の1回目)

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 兄の圭輔氏は清水エスパルスの下部組織から2000年にトップチームに昇格。その後、柏レイソル、ジェフユナイテッド千葉、徳島ヴォルティス、FC岐阜といったクラブを渡り歩いた。2歳下の吉彰氏は、ジュビロ磐田ユースから2002年にトップチームに昇格。その後、ベガルタ仙台でも活躍して2015年に磐田に復帰していた。2019年に一度は現役を引退したが、2024年からは神奈川県1部の品川CC横浜でロールモデルプレーヤー兼コーチとして現役に復帰している。

 サッカーどころ静岡に生まれたこともあり、自然とサッカーをするようになった圭輔氏は、小さい頃から天才サッカー少年として名を馳せていた。そんな兄を追いかけるように弟の吉彰氏もサッカーをしていた。

 2人の年齢差は2歳。小学校はもちろん、中学校や高校でも同じチームに所属していれば一緒にプレーすることもあっただろう。だが、仲が良い兄弟にもかかわらず、2人は「最初の少年団で少し一緒だっただけ」で、キャリアのほとんどを別のクラブでプレーした。

 プロサッカー選手になるほど、サッカーに打ち込んだ2人。中学生の頃に朝練をしたり家の前で父が組み立てたゴールを使って3人でボールを蹴っていたという太田兄弟だが、公式戦で同じピッチに立ったのは、Jリーグの舞台で対戦した数試合のみだという。

「すごく楽しかった」と圭輔氏は振り返り、「僕が清水、弟が磐田にいたときの静岡ダービーが2試合、あとは僕が引退間際のときに岐阜と磐田の対戦で戦いました。楽しかったですね」とスラスラと思い出した。「岐阜と磐田の試合は忘れてた」と言う吉彰氏も、「特にダービーは静岡でも特別な試合でしたからね。そういったなかでできるのは、すごく特別な感じでした。ただ、親は複雑だったと思います」と笑った。

 運動能力が高く「長距離は本当に得意でした」という圭輔氏は、中学1年のときに出場した陸上の大会で1500メートルを約4分半で走る大会記録を作ったという。中学1年時は陸上部の顧問に入部するように説得されたことで、陸上部とサッカー部を掛け持ちしていたという。

 学校が終わると陸上部として1000メートル×10本や200メートル×20本といった練習をこなす。そのあとに当時所属していた本田技研のジュニアユースの練習に向かうのだが、練習開始時には「足がガクガクなんですよね」と苦笑する。そんな状態で、ほかの疲労がない状態の選手たちとトレーニングをしていたという。

「きつかったのは陸上の練習の後、チームでもフィジカルトレーニングをしたときですね。『これだけ走った後に、またフィジカルかぁ』と思っていました。当時は、よく走っていたイメージがありますよね。今では考えられないですけど、自分にはそういう練習が良かったのかもしれません」

 これだけではなく、日々の朝練も積極的にやっていたという圭輔氏に対して、吉彰氏は対照的だった。「朝練も僕はイヤイヤ付いていく感じでしたね」と言い、運動神経抜群の兄は、常に道標になっていたという。

「僕はラクでしたよ。兄がずっと先を走っていてくれたから。もちろん、ついていけなかったんですけどね。兄は小学校のときも、中学校のときも選抜にも、年代別の日本代表にも入っていて有名でしたから。僕は静岡県選抜にも入れなかったどころか、高1、高2のときもジュビロユースでレギュラーではなかったので。でも、目の前に兄がいてくれたので、目指すべき目標は常にはっきりしていました」と、後に日本代表にも招集されることとなるアタッカーは、意外な過去を明かした。

 それぞれ静岡県のクラブでJリーガーとなったが、吉彰氏が抱いていたのは畏敬の念に近い。

「兄には『絶対勝てない』って思っていたので、対戦するときはやりづらさがありましたね。サテライトのときにマッチアップしたときもマークを外して1点取られましたけど、小さい頃からずっと憧れていたので。ライバルだと思ったことはないですし、小学校、中学校と全然練習しなかったけれど、あそこまでいかないとプロになれないと憧れてましたね」

 周囲の評価も大きく違っていた。兄は清水と磐田の両方の下部組織からオファーを受けて清水入りを選択。弟はテストを受けて磐田のジュニアユースに入る。現在はほぼ対等の両クラブだが、当時はオリジナル10でもあった清水が一目置かれる存在であり、清水はオファーを受けた選手だけが加入できる状態だったという。吉彰氏は「家によくスカウトが来て、兄と話をしていたのを覚えていますね」と言う。そんな姿を見ていたら、憧れを抱くのも自然だろう。ちなみに勉強についても「兄はできました。その一言で、察してください」と吉彰氏は笑った。

 のちにサイドアタッカーとして2007年のアジアカップを戦う日本代表にも選出された吉彰氏は、「憧れていましたね。小学校のとき、兄がトップ下をやっていたら僕もトップ下。高校から右サイドになったら、僕も磐田ユースに入って志願して右サイドをやらせてもらいました。兄の試合は毎回、小学校のときも中学校のときも見に行っていましたからね。高校は遠くに離れてしまったのですが、それでも見に行っていましたね。その影響が大きかった」と、常に兄を追っていたという。

 一方、兄は少し努力が苦手な弟が高い潜在能力を持つことを感じつつ、温かく見守っていた。「高校に入ってからは、頑張ったんじゃないですかね」と磐田ユースに入って寮生活を送るなかで、ピッチ内外で成長していくのを感じていたという。

 現役時代はポジションも利き足も重なっていたことから、「同じチームでプレーすることは全く考えなかった」と口をそろえる2人。それでも吉彰氏は現役生活中に所属クラブも決まっていないなかで欧州挑戦に出ると、圭輔氏も引退後にアメリカの大学・大学院へ留学して卒業するなど、世界に挑戦しようとする姿勢など生きざまには共通点も感じられる。

 現在、圭輔氏はアメリカのセントラルフロリダ大学の女子サッカー部のアシスタントコーチを務めており、吉彰氏は解説者として活躍をしながら、元日本代表DF槙野智章監督が率いる品川CC横浜でロールモデルプレーヤー兼コーチとして活動をしている。いつか2人が監督として再び対峙するとき、あるいは同じチームで指導者として活躍することが、この先の未来にあるかもしれない。

(河合 拓 / Taku Kawai)



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