J複数クラブ、シンガポール…紆余曲折の監督キャリア チーム降格も…4年後に届いた再オファー「突然でした」

現在韓国の大田ハナシチズンで戦術コーチを務める吉田達磨氏
2024年からKリーグ1部・大田ハナシチズンで戦術コーチを務めている吉田達磨氏。ご存知の通り、彼は柏レイソル、アルビレックス新潟、ヴァンフォーレ甲府、徳島ヴォルティスの4クラブで指揮を執った経験がある。
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柏で采配を振るったのは、2015年シーズンの1年。ユース時代からプレーヤーとして活躍し、2002年の引退後は長く育成畑で働いた柏は彼にとって特別なクラブ。そこでトップチームの監督になるというのは、本当にスペシャルな出来事以外の何物でもなかった。
「僕にとって柏のホーム・日立台(現三協フロンテアスタジアム柏)は実家のような感覚でした。日立のユースでプレーしながら、トップチームのサポーターでもありましたから。日本リーグ(JSL)1部と2部を行き来していた頃、スタンド数段しかない古い日立台に通っていましたし、誰も来ないアウェーにもよく行きましたね。2018年ロシアワールドカップで日本代表を指揮した西野朗さんがプレーしていた時代ですね。そのクラブでプロ選手となり、引退後も働けて、トップチームの監督になれるのは本当にありがたいことでした」と彼は10年前の偽らざる思いを口にする。
だが、特別な愛情を注いだクラブの監督をわずか1シーズン戦っただけで去ることになる。年間成績10位(第1ステージ・14位、第2ステージ・6位)、ACLベスト8, 天皇杯ベスト4の結果で退任するというのは異例のことだった。
「結果やコミュニケーションのミスは当然受け入れています。完全に未熟でした。ただ、ACLのノックアウトステージの最中で、いいスタートを切った第2ステージ序盤にクラブ内で僕の解任の動きが起きて、約5か月の間、日々それとも戦わなければいけなかったことはかなり辛かったです」と吉田氏は10年前の悔恨を吐露する。こういう形でお世話になったクラブを離れるのも不本意だったに違いない。
Jクラブを複数率いた
それから空白期間を置くことなく、吉田氏は翌2016年1月にJ1・新潟で指揮を執ることになった。しかし、松原健(横浜FM)や舞行龍ジェームズ(新潟)ら前年から怪我を抱える主力が複数いることをキャンプインしてから知ることになり、いきなりチーム作りに苦慮。彼なりに対話を重ねながら強化を進めていったが、どうしても勝ち星がついてこなかった。そして、ラスト4戦残して退任という事態に直面することになったのだ。
「新潟では大きな重圧がありましたが、毎日が必死だったし、選手、全スタッフと一緒に確実に何かを作っているという実感が持てて、本当に濃密な時間でした。自分が離れた後、チームが残留したことも嬉しかった」と吉田氏は心から安堵したことを打ち明ける。
続く翌2017年は当時J1のヴァンフォーレ甲府へ赴くことになった。佐久間悟GM(現社長)とも意思疎通を重ね、前年の失点数を確実に減らしながら、攻撃的サッカーができるベースを作ろうと試みた。実際に失点数はリーグ6位となり、それを実行した形だったが、サッカーは点が取れなければ勝てない。その現実が重くのしかかり、同年にJ2降格が決定。2018年4月にチームを離れることになってしまった。
「勝ちきれなかったこと、チームを守り抜けなかったこと……。時間はかかりましたが、すべてを受け入れました。正直、甲府を離れた時には『すぐにでも次の仕事がしたい』と思ったし、実際に声をかけていただいたクラブもありました。でも、プロとして冷静に考えて、初めて『やらない』という判断を下した。そこからは自分との対話の日々でした。あらゆる場面が脳裏を駆け巡ったし、1つ1つを熟考した。とても意味深い時期でした」と本人も神妙な面持ちで言う。
心機一転シンガポール代表監督に就任
迎えた2019年5月。そんな吉田氏は心機一転、シンガポール代表監督という新たな仕事にトライする決断を下した。実は彼が現役最後にプレーしたのがシンガポールのクラブ。奇妙な縁のある国に渡り、強化をスタートさせたのだ。
ところが、その矢先にコロナ禍という未曽有の事態が襲う。2020年末には契約を延長したが、国同士の行き来が自由にできない環境面含め、思うようにならないことも多かったはずだ。
「熱帯の国で暑いということもあり、なかなかハードな練習を行えないという現実がありました。各クラブの練習時間も涼しくなる夕方から練習がほとんど。そうなると夜が遅くなり、朝は寝ているという選手も少なくない。代表では暑さ対策とプロとして当然の生活サイクルを構築するために、練習を朝8時開始に設定するなど、工夫を凝らしていきました。
シンガポールには敬虔なイスラム教徒の選手もいましたが、ラマダン期間中の彼らは日没まで何も食べず、水さえも飲まないこともある。信仰を守りながら、猛暑の中でピッチに立ち、僕の指示を聞いてベストを尽くそうとしている姿を見て、本当に素晴らしいなと感じました」
異国でできる限りのチャレンジを続けていた吉田氏。その彼がシンガポールを契約満了前に離れる決断をしたのが2021年末。SUZUKI CUP(鈴木カップ)を戦っている最中だった。一度退任した甲府から再オファーが届いたからだ。
「前任の伊藤彰さん(長崎コーチ)が突然、ジュビロ磐田に行くことが決まり、継続路線でなおかつ『甲府』を分かっていることで、僕にオファーが出ました。若い選手たちを成長させつつチームを発展させてほしいということで、シンガポールとの契約を1年残して日本に戻ったんです」
2022年1月に2度目の指揮官就任の際、「その打診は突然でした。全く予想もしていませんでした。2017年に降格したにもかかわらず、私の仕事ぶりを評価し、再びこのヴァンフォーレ甲府で指揮を任せることを決断してくれたクラブに感謝します」とコメントを発表した通り、本人にとっては青天の霹靂だったに違いない。急遽ではあったが、よく知る場所、お世話になったクラブや街の力になりたい……。そう決意し、彼は再び山梨に向かったのだ。(第5回に続く)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。





















