先輩に「点取りゃいいんでしょ」 銅メダルメンバーが釜本さんを回顧…“豪快”の裏にあったビール1本

釜本さんはメキシコ五輪で7ゴールを挙げ、得点王に輝いた
日本サッカー史上最高のストライカー、釜本邦茂さんが8月10日、肺炎のために大阪府内の病院で死去した。81歳だった。1968年メキシコ五輪で銅メダル獲得に貢献したエースの死に、銅メダルメンバーたちもショックを隠せなかった。
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釜本さんとのコンビで銅メダル獲得の原動力となった「黄金の左足」杉山隆一氏(84)は、静岡県内の自宅で訃報を聞いた。「悪いとは聞いていたけれど、オレより3つも若いのに……」と漏らした。
三菱重工(現浦和)のエースとしてヤンマー(現C大阪)の釜本さんと競い合い、代表ではホットラインでゴールを量産した。引退後もヤマハ(現磐田)を率いてヤンマーの釜本さんと監督対決。ライバルであり、盟友だっただけにショックも大きい。
「あいつは、ゴールの形を持っていた。絶対があった。なかなか絶対に決められる選手はいないけれど、釜本は絶対だった」と話した。メキシコ五輪では「杉山-釜本」が最大の得点パターン。釜本さんが7ゴールで得点王に輝いたが、5ゴールは杉山氏のアシストだった。
杉山氏は「釜本に出せば決めてくれると思っていたし、釜本も僕からはパスが来ると思ってくれていた。毎日、練習後に200本はクロスからシュートの練習を繰り返した。それがメキシコで花開いた」と当時を懐かしむように言った。「何度も繰り返した結果、お互いに信頼していた。奇跡ではない」と話した。
地元メキシコとの3位決定戦では「攻撃は僕と釜本に任せて9人は守れ、という戦術だった」というが、それがはまって銅メダル。「金ではなかったけれど、銅メダルでもうれしかった。当時としては、上出来。メダルはうれしかった」と振り返った。
「ちゃんと決めろ」「パスが悪い」と練習から衝突もしたが「それでも、繰り返し練習した成果が出た」と杉山氏。「あいつは、人間性も素晴らしかった。早大では二村(昭雄)、ヤンマーでは吉村(大志郎)、代表では僕、いつもアシストする選手に感謝していた。ゴールを量産しても、奢ることはなかった」と話した。
自身は股関節を痛めて3か月前まで入院。今は週2のリハビリを欠かさないという。「今は外に行けないのがつらいけれど、再び自由に歩けるように頑張っている」と話し、釜本さんに対して「あいつがいたから、いいサッカー人生が送れたんだ」と心から言った。
釜本さんが早大に入学した時に4年生だったメキシコ組の松本育夫氏(83)も「残念です。長嶋さんが亡くなった日(6月3日)に危篤になったと聞いて、心配していましたが」。もともとセンターFWだった松本氏だったが、釜本入学に合わせてサイドのFWへ。「1年生からすごかった。デビューした秋のリーグ戦初戦は5-0の大勝だったけれど、5点すべて釜本だった」と懐かしそうに話した。
ストライカーとしての技術、才能は当然だが、松本氏は「特に素晴らしかったのは人間性。自分をコントロールできた」と明かした。飲みに行っても「ビール小瓶1本だけ。それ以上は飲まない。常に自分を律して、サッカー優先の生活だった。当時はまだプロもないし、なかなかできることじゃない」と話した。
「心も強かった」と同氏。「日本代表の試合で中盤の八重樫(茂生)さんに『釜本守れ』と言われたけれど『先輩、点取りゃいいんでしょ』と言ってのけた。大学の大先輩に向かって平然と自分の主張を通し、実際に点を取っちゃう。とんでもないヤツですよ(笑)」。
杉山氏も松本氏も「今の選手はうまいし、海外での経験も豊富に積んで頼もしいですよ」と言いながらも「釜本以降、本当のストライカーは出てきていないし、これからも出ない」と口をそろえた。メキシコ五輪組にとっても、それだけ釜本氏は別格の存在だった。
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。



















