釜本さんと“確執”の真実「若気の至りだった」 永島昭浩氏が追悼、疎遠→解消…家族ぐるみの食事会

愛弟子の永島昭浩氏が恩師・釜本さんを追悼
大阪府サッカー協会の会長で元日本代表のFW永島昭浩氏が8月10日、同日に逝去された釜本邦茂さんを悼んだ。1993年のJリーグ開幕時にガンバ大阪の初代監督を務めた釜本さんと、看板選手として師弟関係にあった永島氏。親のように慕った釜本さんとは衝突した時期もあったが、現役中から深い愛を注いでくれた恩人だった。家族ぐるみの付き合いだった釜本さんとの別れは「本当にショック」と悲しみに暮れた。
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今でも脳裏に浮かぶ。最後に会ったのは4、5年前。日本代表のOBが参加するドリームマッチで釜本監督のもと、プレーしたのが別れの場となった。
「数年前から入院されているというのは聞いていて、お見舞いに行きたいとリクエストしていた。だけどタイミングが合わず、なかなか行けなくて……そんなに深刻じゃないとも思っていた。最後にお話がしたかった。本当に、本当にショックです」
後悔がある。1993年、Jリーグ開幕時にG大阪の監督を務めた釜本さんのもと、32試合12ゴールを挙げてスター選手へと駆け上がった。指揮官と“二人三脚”でリーグを盛り上げようと必死だった。だが、次第に出場機会が遠のき、ベンチを温める日が続いた。そんな時に届いた清水エスパルスからの熱烈オファー。選手として、新天地を選んだ。当時は電撃移籍に釜本さんとの“確執”も伝えられた。
「確執ではなくて、本当に自分の器の小ささだった。自分の独りよがりでチームを離れてしまったと思う。若気の至りだった。試合で結果を出せず、自分の問題だったけど、ガンバで踏ん張る選択肢を外した。当時はJリーグ創成期で自分のような移籍もファンにとっては受け入れ難いものだった。そういう時でも『永島がそう考えるなら』と僕のことを深く考えるような言葉を掛けてくれていた」
実際、疎遠になった時期もあったが、釜本さんの気遣いに助けられた。現役中から何度も釜本さんの家族との食事会に招待され、すぐに雪解けた。イメージ通りの「豪快な人だった」と言い「肉離れしたら『肉食べとけー!』と言っていた(笑)」という。
釜本さんは現役中に国際Aマッチ76試合歴代最多となる75得点を記録。1968年のメキシコ五輪では6試合で7得点を挙げ得点王に輝き、日本代表の銅メダル獲得に大きく貢献したレジェンドだ。歴史に名を残したストライカーの大先輩に直接指導を受けることも多かった。
「シュートは僕が見た中で一番すごかった。ガンバの時、釜本監督に『こんな風に蹴るんや』と言われて、そのシュートがまた百発百中。普通パワーを上げたら精度が落ちるのに。ボールが軽いバレーボールみたいに弓形にしなって飛ぶ。あんなシュートを見たのは釜本さんだけ。『こうやれ!』って言われても『何をすればいいんや?』となるぐらい真似できなかったです」
思い出は尽きない。釜本さんの思いを受け継ぎ、これからも共に歩んで行く。
(FOOTBALL ZONE編集部・小杉 舞 / Mai Kosugi)



















