広島でも健在だったロナウジーニョ 蘇る25年前の記憶…圧倒的な存在へと駆け上がった“ガウショ”

ロナウジーニョは華麗なテクニックで広島の観客を魅了した
試合前、まだ観客のいないエディオンピースウイング広島のピッチには、快晴の夏の空から強い日が差し込んでいた。陽光は目を閉じても残照を感じるほどの強さだ。
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キックオフを待つ静寂のスタジアム。思い返せば閉じた瞼の底には、いまでもセレソン(ブラジル代表の愛称)のエースナンバー10を背負い、華麗なプレーでブラジルサッカーの神髄を体現し続けた、現役時代のロナウジーニョの姿が焼きついている。
7月27日、ジーコの呼びかけによってチャリティーマッチ「Zico All-Star Game For Peace HIROSHIMA 80 Years」が行われた。
対戦したZICO JAPAN LEGEND PLAYERSにはジーコの日本での活動において、関係が深かった元鹿島アントラーズの選手や代表監督時代に、ともに高みを目指した仲間たちが顔を揃えた。対するZICO WORLD LEGEND PLAYERSはロナウジーニョやドゥンガ、ジョルジーニョといった伝統のカナリア色のユニフォームに袖を通したスター選手が名を連ねた。
往年のスター選手たちがピッチを彩った試合で、スタンドからの視線をもっとも集めたのは、やはりロナウジーニョだった。現役さながらとは言えないが、ノールックパスを繰り出すなどテクニカルなプレーを披露。味方、敵に関係なく好プレーには拍手を送り、笑顔を絶やさず、なにより彼自身がサッカーをすることを楽しんでいた。
これまでカメラのファインダーに捉えてきたロナウジーニョを振り返れば、彼の存在がクローズアップされたのは、2000年1月に開催されたシドニーオリンピックの南米予選だった。ロナウジーニョはブラジルのロンドリーナ市で集中開催されたこの南米予選に19歳で参加する。
丸刈り頭で、CBF(ブラジルサッカー連盟)のロゴが入ったリュックを背負ってスタジアム入りする姿は微笑ましく、表情にはあどけなさが残っていた。しかし、ひとたびピッチに立つとフォワードとして(当時はゲームメーカーではなく最前線の選手だった)、大会を通して9得点を挙げて母国の本大会出場に大きく貢献する。すでにフル代表にもデビューしていたが、このオリンピックチームでの活躍によって、彼はセレソンでの地位を確立したのだった。
このときのロナウジーニョの通り名は“ロナウジーニョ・ガウショ”。ガウショはポルトガル語で「カウボーイ」を意味する。
当時、ヨーロッパのクラブでプレーする前のロナウジーニョは、ブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スル州の州都ポルト・アレグレ市を本拠地とするグレミオに所属していた。リオ・グランデ・ド・スル州は、アルゼンチンとウルグアイに国境を接し、伝統的に勇敢なガウショたちが活躍する土地として知られている。
本名のロナウドに指小辞をつけたロナウジーニョという名称は、ブラジルにおいて限りなく一般的なため、同名の選手が数多く存在する。そのため混同されないように、この出身地を意味するガウショをつけて呼ばれていた。
その後、ロナウジーニョ・ガウショは“ロナウジーニョ”と言えば彼だと認識されるまでの存在へと駆け上がっていく。ガウショの名称をつける必要がなくなる圧倒的な選手となり、栄光のブラジルサッカー史にその名を刻むことになる。
人々がイメージするブラジル的なサッカーの表現を追い求めた、指折りのファンタジスタであったロナウジーニョ。現役時代のハイプレッシャーを受けるなかでも華麗なプレーで観客を魅了し、サッカーを楽しむ姿勢を貫いてきたのだから、当然ときが流れたフェスタ(お祭り)の舞台でも、これまでのサッカーに対する姿勢は健在であった。
やはり彼はなにも変わっていない。どんなときでも唯一無二の“ロナウジーニョ”だった。
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。



















