「契約満了かも」の危機…「彼とは大喧嘩3回」恩師も涙 JFL→J2→J1“遅咲きの新星”

横浜FMでJ1デビュー弾、27歳FW谷村海那は「本当に貴重な選手」
27歳にして掴み取ったJ1でのデビュー戦で鮮烈な先制ゴールを決めて、横浜F・マリノスの快勝と最下位脱出に貢献したFW谷村海那。国士舘大学を卒業した2020年春にはJクラブからオファーが届かず、当時JFLだったいわきFCでボランチからストライカーへの転向も含めてJ3、J2と約5年半もの歳月をかけてステップアップしてきた苦労人が、新天地の横浜FMでいきなり脚光を浴びたのは決して偶然ではなかった。(取材・文=藤江直人)
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ヒーローインタビューの最後を、横浜FMを救った遅咲きの新星はこんな言葉で締めた。
「勝つために自分は走るので、これからも応援お願いします」
連勝で約3か月ぶりに最下位から脱出した横浜FMの大島秀夫監督は、チームの救世主をこう語った。
「ハードワークができる、本当に貴重な選手だと思います」
J2のいわきからJ1の横浜FM移籍後に初出場を果たした7月20日のJ1リーグ第24節・名古屋グランパス戦で、前半35分にJ1初ゴールとなる先制弾をマーク。最終的に3-0のスコアで快勝する口火を切り、ホームの日産スタジアムに陣取ったファン・サポーターを狂喜乱舞させたFW谷村海那が自ら語り、鮮烈デビューを飾った27歳の苦労人を指揮官が称賛したものだ。
今から5年前の2020年。当時JFLに所属していたいわきFCへ加入したばかりの谷村は、思うように走れず、90分間を通してハードワークも継続できなかった。何より現在とは異なるポジションでプレーしていた。
岩手・花巻東高校から国士舘大学に入学した谷村は、高校までのストライカーからボランチにポジションを変更。当時のサイズは身長181cm・体重83kg。大型ボランチとしてピッチの中央に君臨し、4年次には9アシストで関東大学サッカーリーグ2部のアシストランキング2位に入るなど、高いパフォーマンスを見せていた。
しかし、チームの所属カテゴリーも関係したのか、大学卒業後にプロ志望しながらも、Jクラブからのオファーは届かなかった。唯一、声をかけてくれたいわきFCでも、待っていたのは苦難の日々だった。
ストライカーへの再転向を決意、強い危機感から“一念発起”
プロ1年目の2020シーズンは新型コロナウイルスの影響でJFL前半15試合が中止となり、後半戦の15試合のみが開催された。そんな異例のシーズン、谷村はいわきでのプロデビューを果たす。第17節・ヴェルスパ大分戦で後半42分から途中出場し、第19節・ホンダロック戦でも後半35分からピッチに立ったが、試合中も頭の中は混乱していた。
いわきのサッカーは、フィジカルの強さを前面に押し出し、攻守両面でアグレッシブに走り回るスタイルが、今も一丁目一番地となる。基礎体力が足りなかった谷村にとって、不得手としていたプレーだった。
自分の強みを活かすにはどうすべきか。熟慮を重ねた谷村は、シーズン途中で高校まで務めたストライカーへの再転向を決意する。迎えた9月13日の第20節・高知ユナイテッド戦に3トップの一角で初先発すると、前半7分と後半10分に連続ゴール。チームを4-3の逆転勝利に導き、ポテンシャルの高さをアピールする一戦となった。
しかし、その後は波に乗りきれなかった。続くラインメール青森戦で先発出場するも、ハーフタイムで交代を命じられた谷村は、再び控えに回る。1年目の出場はわずか7試合、総出場時間は165分にとどまり、2得点を記録したものの、最終盤の7試合では第27節・松江シティFC戦での8分間出場を最後に、ベンチ入りすらできないままシーズンを終えた。
2年目の2021シーズンも、谷村にとっては試練の連続だった。初出場は第9節のマルヤス岡崎戦まで持ち越され、開幕からの8試合ではベンチ外が6試合に及んだ。それでも少しずつ出場機会を増やし、最終的には23試合に出場して5ゴールを記録。ただし、そのうち13試合は途中出場であり、大卒で加入していた自分の立場を考えれば、心の中には常に不安があったという。
「1、2年で契約満了になるかもしれない」
実際、いわきは毎シーズン、戦力の入れ替えをシビアに行っていた。前年のJFL制覇とともにクラブとして初めてJリーグに入会し、J3の舞台で戦う2022シーズン。谷村は一念発起した。
「油を使った料理をたくさん食べてしまい、食事面で指導を受けることも多かったので」
練習の一環と言っても過言ではない毎日の食生活を含め、サッカーに関わるすべてを見直す覚悟を固めた谷村は、2022シーズン以降の取り組みについて、こんな言葉とともに振り返っている。
「コーチと真面目に話し合って、プロサッカー選手としての意識を変えていかないと生きていけないと自覚できました。それからは自分の成長だけにフォーカスして頑張ってきました」
涙が自然と出た訳…「監督に厳しくされて今がある」と感謝
マイペースな性格の谷村によれば、いわきの大倉智社長から何度も怒られたという。田村雄三監督も「彼とは大喧嘩を3回くらいしました」と苦笑する。だが、それは上のステージを目指すという共通の目標があり、互いの意見を真正面からぶつけ合った証と言ってもいい。そんな田村監督は、谷村への想いをこう語っている。
「それでも彼は、へこたれず陰の努力を続けることも知っていました。体脂肪を減らそうと夜な夜なランニングをしていましたし、栄養面も一番気を遣っている選手でした。一緒に過ごした6年間すべてが思い出です」
その言葉は、谷村がいわきで迎えた最後の試合――今年7月5日のJ2第22節・大宮アルディージャ戦のあとに語られたものだ。敵地・NACK5スタジアム大宮へ駆けつけたファン・サポーターへのスピーチで涙する背番号「10」につられるように、指揮官もまた涙腺を決壊させた。谷村自身もこんな言葉を残している。
「自分自身、涙脆くて最後の挨拶の時は泣いてしまいました。自分はいわきで育って、田村雄三監督に厳しくされて今がある。覚悟を持って決断した移籍なので、いろいろ思い返すと涙が自然と出てきました」
横浜FM加入時に発表された谷村のサイズは181cm・79kg。全員が筋肉質のボディを目指すいわきの方針の下、独特のノウハウを駆使したフィジカルトレーニングに、徹底した栄養管理とサプリメント摂取を融合させてきた。ルーキーイヤーから4kg減った体重には、地道に体脂肪を削ぎ落としてきた努力の証が刻まれている。
そして、急成長の跡は数字が証明している。先発した試合数は、2022シーズンの「3」から、いわきがJ2へ昇格した2023シーズンは「29」へ急増。全38試合出場を果たした2024シーズンは「36」を数え、プレータイムの合計は3194分と、チームの全試合に対する割合は実に93.4%に達した。
ゴール数も2022シーズンの「6」から2023シーズンの「7」を経て、2024シーズンは「18」へと急増。J2得点王の小森飛絢(当時・ジェフ千葉/現・浦和レッズ)に次ぐ2位タイで一躍脚光を浴びた谷村は、今シーズンも全22試合で先発し、チーム最多の8得点をマークしていたなかで横浜FMからオファーが届いた。
ファン・サポーターのハートを鷲掴み、不発からの「持っているな」
悩み、苦しみ、一時は残留も考えた末に決断したシーズン途中での移籍。谷村は「見捨てずにここまで成長させていただきました。言葉にできないくらい感謝しています」と、いわきへの感謝を込めながらこう語る。
「JFLからともに戦ってきた皆さんと、このタイミングで離れるのは本当に申し訳ない気持ちです。大学の時、オファーを出してくれたいわきFCに本当に感謝しています。本当に寂しいです。自分で決めたこの選択を後悔しないように、これからも成長していきます。結果を残すことが皆さんへの恩返しだと思っています」
もともと恵まれた体格に、攻守両面で走力とハードワークを支えるスタミナ、そして開花した得点能力も加わり、谷村はついにJ1の舞台に立った。
シンガポールのライオン・シティ・セーラーズへ移籍したFWアンデルソン・ロペスに代わり、3トップの真ん中で先発したJ1デビュー戦でいきなり結果を残し、試合後には喜びを語った。
「嬉しいですし、自分でも『持っているな』と思いました」
いわきでのラストマッチとなった大宮戦。フル出場で逆転勝利に貢献した谷村は、試合後に涙を浮かべながらこう語っていた。
「得点を決めていたら『持っている男』として終えられたんですけど」
その不発は、新たに紡がれていくストーリーへの予告編だったのかもしれない。谷村のいわきを去る決断に、本人はもちろん、指揮官やチームメイト、ファン・サポーター、さらには大宮戦後に取材した地元テレビ局の女性アナウンサー、ニュースを伝えたキャスターも涙――そんな別れからわずか2週間。「努力は必ず報われる」。その言葉を体現するかのように、谷村はJ1の舞台で堂々とデビューを飾り、ゴールという結果を残した。
プレーするカテゴリーが国内最上位のJ1に変わっても「持っている男」としてデビューを果たし、クラブ史上で未曾有の不振からの脱却を目指す横浜FMのファン・サポーターのハートを、一夜にして掴み取った。

藤江直人
ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。




















