「小僧の僕に教えてくれた」Jリーグの衝撃 プロ12年目の原点、一流から学んだ「当たり前」

GK高丘陽平が振り返るJクラブ時代「本当にありがたかった」
プロ12年目の今も進化を続けるGK高丘陽平。MLS(メジャーリーグ・サッカー)のバンクーバー・ホワイトキャップスで守護神を務める29歳は、「当時の出会いがなかったら、今の僕はいない」とプレーの原点を振り返る。Jリーグ時代に出会った偉大な先輩たちとの交流、世界基準に触れた日々が現在の礎となっていると明かす。(取材・文=元川悦子/全8回の6回目)
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バンクーバー・ホワイトキャップスでプレーする高丘は、プロ12年目のシーズンを迎えている。横浜FCのアカデミーで育ち、2014年にトップチームへ昇格。2018年3月まで在籍したのち、サガン鳥栖に期限付き移籍し、2019年に完全移籍へと移行した。2020年10月まで鳥栖でプレー後、古巣・横浜FCのライバルである横浜F・マリノスに加入。2022年にはJ1優勝の立役者となるなど、Jリーグで着実にステップアップを重ねてきた。
そんな高丘が振り返る原点の1つが、横浜FC時代の出会いだ。
「横浜FC時代を振り返って、ユース時代を含めてお世話になった先輩をまず挙げると、シュナイダー潤之介さんですね。長野パルセイロでGKコーチを務めていた昨年、ガンで治療に専念することが発表され、良くなっていると聞いていますけど、本当に早く回復してほしいと心から願っています」
トップ昇格後には、多くの経験豊かな選手たちに支えられた。高丘はしみじみと感謝の言葉を口にする。
「トップで出会ったなかで言うと、南雄太さん、安英学さん、北野貴之さん、渡邉匠さん(いわきFCヘッドコーチ)、永田拓也さんといった選手たちですね。横浜FCには18~21歳くらいまで在籍しましたが、ベテランの凄いキャリアを持った人たちが小僧の僕にいろんなことを教えてくれましたし、時には厳しい言葉もかけながら根気強く面倒を見てくれた。若い時に近くで親身になってもらったことは、高卒で右も左も分からなかった自分にとっては本当にありがたかった。当時の出会いがなかったら、今の僕はいないと感じています」
当時の高丘はヤンチャではなかったものの、本人曰く、人間的に未熟なところもあったという。「コミュニケーション1つ取るにしても、今のようにはいかなかった」と苦笑い。人としてどうあるべきかを示してくれた先人たちの一挙手一投足は大きな指針になった。それは紛れもない事実と言っていい。
強い影響を受けた先輩GKの存在「朝一番に来て最後に帰るのは当たり前」
今回のインタビューを取り持ってくれたのも、名前が挙がった1人、南だった。2024年12月、南の引退試合にはカナダから帰国して参加するほどで、強い絆を感じさせた。
「雄太さんは僕より15歳上なんですけど、プロとしてどうあるべきかを見せてくれましたね。最高のパフォーマンスをするために朝一番に来て最後に帰るのは当たり前。すべてをサッカーに注ぎ込むのを日常にしていました」
高丘は、南の姿勢に強い影響を受けたという。
「僕が横浜FCにいた頃、雄太さんは基本的にはスタメンでしたけど、何回かサブに回ることもあった。本人は悔しかったと思いますけど、そんな時でもチームがネガティブになるような立ち振る舞いは一切しないし、常にみんなから尊敬されるような姿勢を見せていた印象があります。GKというポジションはどれだけ周りから信頼されるかが大事な要素になる。それを体現していた1人が雄太さんですし、何が正しくて何がダメなのかを間近で学ばせてもらった。今でも本当に感謝しかありません」
2018年途中からJ1の鳥栖へ移籍した高丘を待っていたのは、J2時代とは全く異なる環境だった。当時マッシモ・フィッカデンディ監督が鳥栖の指揮を執り、元スペイン代表FWフェルナンド・トーレス、権田修一(ハンガリー1部デブレツェニ)、豊田陽平(鳥栖・クラブコンダクター)、金崎夢生(JFLヴェルスパ大分)ら代表歴のあるタレントが揃っていた。
「鳥栖でも影響力のあるたくさんの先輩たちとの出会いがありました。まずゴンさん(権田)を筆頭に、小林祐三さん(Jリーグ・フットボール本部企画戦略ダイレクター)、岩下敬輔さん、高橋秀人さん、金崎夢生君、加藤恒平君(マカオ1部・鄒北記体育会)といった人々には本当にお世話になりました」
高丘はそこで人として、そしてGKとして、大きく視野と価値観を広げていくことになる。
「鳥栖に行って最初に感じたのは、『J1とJ2ではこんなに違うのか』という驚きですね。選手の質、クラブの規模、スタジアムの雰囲気を含めて、さまざまな面で違いを感じました」
GK権田修一にも感謝「公私ともにお世話になりました」
そんな環境で、特に支えになったのが同じGKで7歳上の権田だった。高丘は当時を懐かしそうに語る。
「そういう時期だったので、特に同じポジションのゴンさんには公私ともにお世話になり、いろんな話をさせてもらいましたね。練習後の昼ご飯はもちろん、夜ご飯もたくさん連れて行ってもらいましたし、ホームでナイトゲームの後、クラブハウスに戻ってトレーニングしてから一緒に晩ご飯とか日常茶飯事でしたね」
2022年カタール・ワールドカップ(W杯)で日本の正守護神を務めた権田は、著書のタイトルに『変人力』と自らつけるほど、個性的かつストレートな性格で知られる。感情表現も明快で、言うべきことはハッキリ言う。時に誤解を招くこともあるが、GKとしての向上心とプロ意識の高さは誰もが認めるところ。高丘も、プロフェッショナルな姿勢に間近で感じ、強い刺激を受けていた。
「ゴンさんは鳥栖で一緒にやっていた2018年から再び代表に定着し、カタールW杯まで走り抜きましたけど、日本のトップ選手がどういうことをやっているのか、プレーのレベルや基準がどうなのかというのを肌で感じさせてくれたのはすごく大きかったですね。今の自分にとって1つの指標になっています。カタールW杯での活躍もある意味、当たり前と言うか、『そりゃそうだよな』という感じで、特に驚きもなかった。少し上から目線の物言いになってしまうかもしれないけど、『あれだけの努力をしている人なんだから、そうならないと採算合わないよね』とも感じた。自分のことのように嬉しかったです」
高丘は素直な思いを吐露する。特に権田がインパクトを残したカタールW杯・ドイツ戦の4連続セーブについても、「ゴンさんは『当たり前のことをやっただけ』とコメントしていましたけど、本当にそのとおりだなと感じました」と笑顔を見せる。
「それ以上に素晴らしかったのは、PKを献上したシーンからのリカバリーですね。並のGKだと右肩下がりにパフォーマンスが落ちていきがちなんですけど、そこで前向きに切り替えて、集中力を引き上げ、ゲームを崩すことなく守り切った。そこが一番凄いなと感心したところです」
そうした修羅場での強さ・タフさ・粘り強さを学んだ高丘。そして今、自らもMLSという舞台で能力に磨きをかけ、着実に“凄み”を増している最中だ。

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。



















