「なんで就職しないといけないの?」慶應法学部卒の異色キャリア 海外留学→大学サッカー改革への道

大学サッカーの発展に奮闘する櫻井友氏【写真:小室 功】
大学サッカーの発展に奮闘する櫻井友氏【写真:小室 功】

大学サッカー改革のキーパーソン、櫻井友氏のキャリアに迫る

 来る2026年に節目の第100回を迎える関東大学サッカーリーグ戦ではより良い環境作りと、さらなる競争力アップを目指し、様々な改革に乗り出している。新たな施策の作成や推進にあたりキーパーソンの1人として日々、奮闘するのが(一財)関東大学サッカー連盟および(一財)全日本大学サッカー連盟の専務理事を兼務する櫻井友氏だ。まずは、大学サッカー界に関わるようになった経緯や異色のキャリアに迫る。(取材・文=小室 功/全3回の1回目)

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 人と人のつながりがあって、今がある。

 今年6月30日に41歳になる櫻井友氏は、大学サッカー界の事務方として携わるようになって、丸10年が過ぎた。3年前から関東大学サッカー連盟の専務理事となり、昨年から全日本大学サッカー連盟の専務理事も兼務している。
 
「2012年か2013年頃に一度、声をかけていただいたのですが、その時はお断りしたんです(苦笑)。でも、その後、またお話をいただいて。さすがに二度も声をかけてもらえるとは思っていませんでしたし、そこまで自分を必要としてくれるのならと、お世話になることにしました」

 2014年12月、関東大学サッカー連盟と全日本大学サッカー連盟の2つを統括する事務局に常勤職員として席を置いた櫻井氏は、以来、大学サッカー界の普及・発展のために尽力し、現在に至っている。

 慶應義塾大の体育会ソッカー部に在籍し、同大法学部の出身。大学サッカー界に縁もゆかりもなかったわけではない。ただ、連盟の学生幹事を務めた経験はなく、将来、自身が大学サッカー界に関わるとは思ってもいなかったようだ。

「連盟の仕事を手伝ってくれないか」

 そう声をかけてくれたのは、ソッカー部の先輩OBであり、当時総監督を務め、連盟の役員もしていた福井民雄氏だった。

「実は、事務局を統括していた方が辞められるということで、後任を探していたようです。韓国留学時代から何かとお世話になっていた福井さんから熱心に声をかけていただき、光栄でした。右も左もわかりませんが、“やってみよう”と思いました」

関東大学リーグからは毎年多くのプロ選手が誕生する【写真:小室 功】
関東大学リーグからは毎年多くのプロ選手が誕生する【写真:小室 功】

慶応大卒業後の進路を模索「なんだか縛られるのが嫌でした」

 連盟と櫻井氏をつなぐ、そもそものきっかけは、2009年3月29日のデンソーカップサッカーだった。日本と韓国の大学選抜によってホーム&アウェーを原則として毎年、開催される定期戦だが、当時、韓国に留学していた櫻井氏に前述の福井氏から連絡が入ったのだ。

「今度のデンソーカップは韓国の安養で行われるのだけど、“通訳をしてくれないか?”という感じで頼まれ、ボランティアとしてチームに帯同しました。連盟のスタッフという形で関わったのは、その時が初めてでしたね」

“櫻井通訳”への依頼は続く。

 同年8月、韓国・仁川で行われたJOMOカップ(Jリーグ選抜対Kリーグ選抜)でも通訳を務めている。“韓国語”を通して、大学サッカー界のみならず、様々なサッカー関係者との新たな出会いがあった。

「どんなことであれ、人から頼まれたり、頼られたり、人の役に立てれば、それはすごく嬉しいじゃないですか。そう思えるのも人と人のつながりがあってこそだし、いろいろな人との交流が自分の可能性を高めてくれるんだなと、つくづく感じました」

 韓国留学がその後の人生に大きく影響していくわけだが、ところで、なぜ韓国に留学していたのか。主たる目的はなんだったのか。そこに異色のキャリアを積んできた櫻井氏ならではの思考の一端を垣間見ることができる。

 大学卒業後の進路を模索していくなかで、「漠然とですけど、人とは違うことをしたいなと思っていました」と苦笑しつつ、次のように語っている。

「僕は就職活動をしていません。周りから“なぜ?”と言われましたが、逆に“なんで就職しないといけないの?”と思っていました。このまま大学を出ても自分に何ができるのか、なんの役に立つのか。社会に貢献できるような武器がないし、どうやって戦ったらいいのか、分からない。そう素直に思っていましたから」

“慶應ブランド”を持ってすれば、お世辞抜きで引く手あまたではないか。事実、法学部の先輩たちは法曹界をはじめ、様々な有名企業に就職していた。だが、櫻井氏はそういった先輩たちのうしろ姿を追うことはなかった。

「(常識や固定観念のようなものに)なんだか縛られるのが嫌でしたし、日本とはまったく異なる環境のなかに飛び込んでいくのもいいかな、と。そのほうが多様な価値観に触れることができて、視野も広がる。将来、どのような仕事に就くにしてもいろいろな経験や人との出会いが今の自分には必要じゃないかと思っていました」

「ほとんど韓国語を話せなかった」それでも韓国留学を決断した訳

 既存のレールの上ではなく、自身の感性や思考の赴くままに、自らで敷くレールの上を歩く――。人生の岐路を前に、そんな思いが強かったという。

 海外の留学先として、ヨーロッパやアフリカ、南米といった国々も選択肢にあった。だが、「韓国はどうだろうか?」という前述の福井氏の勧めもあり、最終的に行き先を隣国にした。何が、決め手だったのか。

 慶應義塾大と延世大(韓国)の間では、古くからサッカーの交流戦が行われ、実はかつて延世大出身の指導者が体育会ソッカー部の監督を務めていた時代もある。このような縁から同大の大学院でスポーツ心理学を学ぶことにしたのだ。

 とはいえ、その前にやらなければいけない重要な“課題“があった。

「ほとんど韓国語を話せなかったので(苦笑)、まずは韓国語を学ぶために延世大が運営する語学学校に進みました」

 2007年3月に大学を卒業した櫻井氏は、新たな志を胸に、海を渡った。

(小室 功 / Isao Komuro)



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