繰り返した靭帯断裂「またやったな。まじか!」 翌日まで涙の妻…コンビニで買った弁当

五輪落選を転機に調子を上げた山瀬功治だったが、2度目の靱帯断裂の悲劇
2000年にJリーグのコンサドーレ札幌でプロ選手となった山瀬功治氏は、J1とJ2の計8チームに在籍し、2024年をもって43歳で現役を退いた。日本代表としても13試合に出場し、25年も現役を続けただけに、“禍福はあざなえる縄のごとし”という言葉がぴったりのサッカー人生だった。24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した最終クラブ、レノファ山口までの来歴をつづった。(取材・文=河野正/全8回の3回目)
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札幌時代の2002年夏、山瀬は東京ヴェルディ戦で右膝前十字靭帯断裂の重傷を負い、リハビリ期間中の2003年に浦和レッズへ移籍。1年目は初優勝したナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)決勝で先制ヘッドを決めたほか、リーグ戦24試合で6得点を挙げるなど、攻撃の要人として存在感を示した。
リーグ優勝とアテネ五輪のピッチに立つことを目標にした2年目の2004年は、調子の上がらない前半戦を過ごした。第1ステージは第7節から最終節まで9戦続けて先発したが、1得点しか挙げられなかった。序盤はベンチ外や途中出場が多い。
「あの頃はうまくいかなかったですね。五輪アジア最終予選やトレーニングマッチでの出来も悪かったし、五輪のメンバーに入りたいという力みもありました。松井(大輔)の存在も大きかった。同じポジションに強力なライバルがいたことも含め、ちょっと周りを意識しすぎたのかもしれません」
第1ステージが6月26日に終了。同30日には石垣島合宿とU-23チュニジア代表との国際親善試合に臨むU-23日本代表が発表され、山瀬は同僚の鈴木啓太、田中達也、田中マルクス闘莉王とともに選ばれた。
ところが、7月16日に発表されたアテネ五輪の登録メンバーに山瀬と鈴木の名前はなかった。
「そりゃ悔しかったですね。あの晩は啓太とふたりで残念会、飲みましたよ。でも切り替えなくちゃ前には進めませんからね。落選したことで吹っ切れたというか、あれから徐々に調子が上がっていきました」
8月14日に第2ステージが開幕すると、山瀬はトップ下で先発を続ける。第2節の東京V戦では後半だけで初のハットトリックを完成させ、同じく3得点の永井雄一郎とともに7-2の大勝をもたらした。第4節の大分トリニータ戦でもゴールを奪い、第1ステージの不出来と五輪落選のはけ口を求めるような働きぶりを見せていたのだが……。
9月18日、開幕5連勝で首位を堅持した第5節のアルビレックス新潟戦だった。4-1とリードしていた後半25分、山瀬は敵ボールを奪取すると、2人に囲まれながら軽やかなドリブルでペナルティーエリアに進入。後方からタックルされたようにも見えたが、体勢を崩して前かがみで転倒。この直後に頭をピッチにつけながら、右手で地面を10回以上たたいた。激痛がそうさせたのだ。
ギド・ブッフバルト監督は会見で「山瀬の怪我は重傷だ。長期離脱を覚悟しないといけない」と案じたが、左膝前十字靭帯断裂で全治6~8か月という診断が出た。
2年前が右膝で今度は左。まったくもって気の毒というか、ついていないというか。しかし当人は「音と痛みの質と着地のタイミングからして、転んだ瞬間、『またやったな。まじか!』ってすぐに切れたことが分かりました」と往時を思い起こす。
しかし2年前もそうだったが、落ち込むことが少しもなかったのだから驚きだ。こういう前向きな考えの持ち主をサッカーの求道者と呼ぶのだろう。
「リハビリが面倒くさいなとは思いましたが、右膝が完治した経験もあるし左も治ると信じていた。ずっとサッカーを続けたい気持ちが強かったので、それには頑張るしかない、我慢するしかないわけですよ。たまたま怪我で試合に絡めなくなったけど、そのほかの理由で試合に出られない人はたくさんいるじゃないですか。落ち込んでいる場合ではなかったんです」
山瀬は19歳のときに4つ年上の理恵子さんと知り合って同棲を始め、浦和に移籍した2003年に結婚。最初の大怪我のときも奥方の顔付きは毎日神妙だったそうだが、2度目はさらに深刻な状態に陥った。落ち込みようが激しく怪我の翌日は、山瀬が起床しても泣き続けて床から出てこられなかった。山瀬は仕方なくコンビニまで弁当の買い出しに出掛けた。
たった2年のうちに左右の膝に大きなダメージを負いながらも、サッカーを続けたい思いでつらいリハビリにも耐えた。
そんな夫を見ていた理恵子さんは、悲しんでばかりいられないと一念発起。一流スポーツ選手の栄養・食事指導で知られる管理栄養士の川端理香さんと個人契約を交わし、リハビリ食や怪我の回復に効果がある栄養学をマスターする。京都サンガF.C.に移籍した2013年頃から、多くの媒体で料理レシピを紹介し始め、高校や大学で講義し、一般企業などの講演会にも招かれる著名な料理家になったのだ。
浦和はこの年の第2ステージで初優勝し、横浜F・マリノスと年間王者を決めるチャンピオンシップに出場。自分がいなくても勝ったことで、複雑な思いに駆られながら山瀬は怪我と戦いリハビリに励んだ。
なんの因果だろうか。2年前をなぞるようにそんな折、故障中の身にもかかわらず移籍話が舞い込んだ。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。




















