サウジで出会った1人の若者「渋谷に行きたい」 現地で衝撃…大会運営とは真逆の“おもてなし”

日本のアニメの効果は絶大
今大会からフォーマットを変えて実施されたAFCチャンピオンズリーグ・エリート(ACLE)。準々決勝からの7試合はACLEファイナルズとして、サウジアラビア第2の都市ジェッダで集中開催された。大会運営には課題が残ったが、サウジアラビア人の“ホスピタリティ”には驚かされた。(取材・文=江藤高志/全3回の3回目)
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悪いことばかり書いてきたが、意外な驚きだったのが接した人たちが総じて優しかったということ。外見だけで国籍が判断できないため、Uberタクシーのドライバーや、競技施設で働く人達のどの程度の割合の人たちがサウジアラビア人だったのかがわからないのだが、言葉を交わした人たちからは嫌な思いはほどんどしなかった。
これはポジティブな驚きで、サウジアラビア人については、今大会の開催にまつわる出来事や、過去に会ってきた中東の人たちの横柄な態度を見てきたため、先入観としては最悪のイメージを持っていた。ところが移動のたびに乗るUberのドライバーや、競技施設で接する係の人たちとの会話を通し、非常に親日的でフレンドリーな国民性の人たちだということが見えてきた。その一つがアニメでつながりを持てるということ。
入国審査官にアラビア語でこんにちはを意味する「アッサラーム・アライクム」と定番の挨拶をすると、人懐っこい笑顔を見せてアラビア語で何か言葉を返してきた。アラビア語のフレーズは挨拶と、ありがとうを意味する「シュクラン」くらいしか知らないので、英語でそう伝えると、「ケイファ・ハールカ」というお元気ですか?を意味するアラビア語だという。それを教えたくて、使ったのだという。その彼は、ワンピースのキャラクターのバッジをスマホケースに貼っており、それを見せてくれて日本のアニメが好きだとアピールしていた。
日本のアニメのコンテンツ力は絶大で、どこに行っても日本人とわかると、日本語の題名でアニメのタイトルを伝えてくる。ワンピースやドラゴンボール、スラムダンクが出てくるのはわかるのだが、例えば鬼滅の刃だったり、呪術廻戦だったりというタイトル名をそのまま口にする人も居た。
川崎の練習場の警備を担当していた若者とは次第に顔見知りになり、最後はインスタグラムのアカウントをフォローし合う中に。ちなみに12時間の拘束時間のアルバイト料は5250円ほどだと話していた。また、日本を観光したいと話していたモハメッドくんは渋谷に行きたいようで、その場に居た取材陣総出で渋谷の写真を検索。ハチ公の話などを伝えたりした。
彼ら、練習場の警備担当者はサウジアラビア人だったのに対し、ゲートに配置された係の人たちは外国人が多かった。特に良く使ったGate2の担当者は、ケニア、イエメン、スーダンからの若者で、Uberタクシー到着の待ち時間に会話すると、冷えた水を手渡してくれた。優しい人たちだった。
今回会話した人たちは、基本的に人柄が良く、どうにかしてお金をむしり取ろうというような人とは会わずじまい。もちろん流しのタクシーや、白タクに乗るとその限りではないのだろうが、Uberのようなサービスが広まった昨今であれば、乗車前に金額が確定しており、またドライバーの評価が収入に直結する仕組みが構築されていることで、表向きの悪い人がその本性を出しにくくなっている側面もあるのだろうと思う。
なお、安全で快適なのは男性だからかもしれないという事例を一件聞いたので書き記しておく。その方は女性で、一人でUberタクシーを配車。そのドライバーから降り際に手を握られ、手の甲にキスをされ、さらには太ももやふくらはぎを揉まれたのだという。そうした悪質なドライバーの事例はほとんど聞かなかったが、稀にそうした出来事に出くわすこともあるということは書き記しておきたい。
ちなみに決勝戦後、複数の川崎サポーターがアル・アハリサポーターから煽られたとの情報が上がってきている。だが海外での公式戦の敗戦後はどこの国でもあることで、彼らはコミュニケーションの一環としてスコアを誇示したり、勝利を過剰に喜んだりしてくるが、それが海外でのアウェイの試合後の悲哀だとも言える。今回、川崎は初めて海外でビッグマッチを戦った。選手だけでなく、サポーターや我々報道陣にとっても、海外での経験が蓄積された貴重な機会になったと思う。
(江藤高志 / Takashi Eto)

江藤高志
えとう・たかし/大分県出身。サッカーライター特異地の中津市に生まれ育つ。1999年のコパ・アメリカ、パラグアイ大会観戦を機にサッカーライターに転身。当時、大分トリニータを率いていた石崎信弘氏の新天地である川崎フロンターレの取材を2001年のシーズン途中から開始した。その後、04年にJ’s GOALの川崎担当記者に就任。15年からはフロンターレ専門Webマガジンの『川崎フットボールアディクト』を開設し、編集長として運営を続けている。





















