海外組は0…稲本潤一が欧州挑戦の苦労を告白「インターネットはほぼ使えない」【インタビュー】

2001年にアーセナルへ移籍し日本人初のプレミアリーガーとなった稲本潤一氏【写真:Getty Images】
2001年にアーセナルへ移籍し日本人初のプレミアリーガーとなった稲本潤一氏【写真:Getty Images】

稲本氏はプレミアリーグで初めてプレーした日本人選手

 今でこそ日本代表は「海外組」がメインになっており、北中米ワールドカップ(W杯)アジア最終予選のバーレーン戦(2-0)では、スタメンが全員海外組となった。しかし、日本が初めてW杯に出場した1998年のフランス大会は、海外組がゼロ人。4年後の日韓大会でも、川口能活氏(ポーツマスFC)、中田英寿氏(ASローマ)、小野伸二氏(フェイエノールト)、そして稲本潤一氏(アーセナルFC)の4人だけだった。その4人の一人であり、海外組の先駆け的存在でもある稲本氏は、まだ日本人が海を渡ることが少なかった当時、どのようなことに苦労したのだろうか。(取材・文=河合拓/全3回の2回目)

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 2001年にガンバ大阪からアーセナルへ移籍してイングランドに渡った稲本氏は、プレミアリーグで初めてプレーした日本人選手だ。イングランドに行く時にも、日本人選手にアドバイスをもらうことは不可能だった。「インターネットもありましたけど、ほぼ使えない状態でしたね。テレビも現地のテレビを見るしかありませんでした」と当時を振り返る稲本氏は、「けれども、海外に行く前から日本代表で遠征もさせてもらっていたので、それほどホームシックになることなどはありませんでした。今振り返れば、海外に行って向こうでの生活は初めてでしたが、各年代で代表に行かせてもらっていたのでイメージはできていたと思います。」と、海外に適応できた要因に、日本代表として活動できていたことを挙げた。

 実際、稲本氏が海外移籍をした際には、すでにU-17の時から年代別の日本代表に選ばれ続け、1999年のワールドユースや2000年のシドニー五輪も経験し、フル代表でも何度も海外遠征に出ていた。そうした経験があったからこそ、海外に対する免疫ができていたのだ。

海外では「電子辞書を持ち歩いていた」

 現在ではスマートフォンが一台あれば、翻訳アプリでコミュニケーションが取れることも多い。「今はもう変な話、現地の言葉を覚える必要もないんじゃないですか? 困ったらスマートフォンを見れば、たぶん、それを見て、それを発して自分でも覚えていけると思います。僕の時は、電子辞書を持ち歩いていましたからね。アーセナルでは半年だけチームが雇ってくれた通訳もいましたが、その人も毎日いるわけではなかったですし、練習の中に入ってくるわけでもないので。でも、2、3カ月経てば、だいたい、どこに行っても言葉は大丈夫なんですよね」と振り返る。

 さらに「いろんな国に行きましたけど、住む場所に慣れたり、生活のリズムをつかんだりするまでは、やっぱりちょっと大変ですが、それを掴んでからは、僕はどの国でも、どのクラブでも大丈夫でした」と、長く海外でプレーできる要因の一つになった自身の適応力の高さを明かした。

 イギリスだけではなく、トルコ、ドイツ、フランスでもプレーした稲本氏だが、最初にイングランドに行けたことも大きかったと言う。

「トルコに行った時も、ほぼ英語でやり取りができたんです。もちろんサッカーで使うような言葉は、トルコ語も覚えましたけど、それ以外のところは基本的には英語でした。ドイツでも、みんな英語を喋れるんです」

 英語を覚えられたことで、移籍をしても新天地になじみやすかったというメリットがある反面、弊害になったこともあったという。「意思疎通ができてしまうから、『トルコ語を覚えよう』『ドイツ語を覚えよう』とならなかったんです。ですから、良かったのか悪かったのかはわかりませんけれど。必要なコミュニケーションが取れていたという点では、良かったと思っています」と、新しい国の言語習得には、英語が足枷になったと苦笑した。

稲本潤一氏は2001年にアーセナルに移籍

 現在、イングランドではプレミアリーグにDF冨安健洋(アーセナル)、DF菅原由勢(サウサンプトン)、MF三笘薫(ブライトン)、MF遠藤航(リバプール)、MF鎌田大地(クリスタル・パレス)と、5人の日本人選手がプレーしている。チャンピオンズリーグ(2部)に目を移せば、さらに9人の選手がプロとして活動している。

 日本人初のプレミアリーグ出場選手である稲本氏は、彼らの道を切り開いた存在といえるだろう。誰もイングランド挑戦をしていなかった2001年というのは、日韓ワールドカップ(W杯)を1年後に控えていたタイミングでもあった。それでも稲本氏は「あのタイミングで(海外に)出て行きたかったっていうのもあるし、もちろん2002年のW杯も目標にはしてましたけど、やっぱり自分のサッカーキャリアを考えた時に、このチャンスは逃したくないなっていう思いもあったので移籍しました」と、出場機会が限定的になって日本代表入りを逃すリスクも承知で、海を渡ったと振り返る。

 イングランドでは労働許可証を得るために高い基準があったが、2020年にイングランドの労働許可証制度が改革され、2023-24シーズンからは一部が緩和された。それも現在の日本人選手増加の一助となっているだろう。稲本氏は「僕らの時はいろいろあったので、なかなか行けなかったんですけど、やっぱりプレミアのあの環境は、ほかにはない。例えば2部であってもドイツを含めて他の国の2部に比べると絶対プレミアの2部の方が激しくて、楽しいと思うんです。イングランドでプレーできるっていうのは、すごい経験だとは思いますね」と、日本人選手が増えていることを喜んだ。

稲本潤一氏にとってとりわけ強い印象を残したデニス・ベルカンプ【写真:Getty Images】
稲本潤一氏にとってとりわけ強い印象を残したデニス・ベルカンプ【写真:Getty Images】

チームメイトにはアンリ、ベルカンプら豪華顔ぶれ

 稲本氏が加入した当時のアーセナルを率いていたのは名将アーセン・ヴェンゲル氏であり、イングランドにパスサッカーを持ち込んだ監督の一人として知られる。だが、当時のアーセナルでは、ちょっと意外な指示がピッチ上の選手たちから出されていたことが印象に残っていると稲本氏はいう。

「当時はフォー・フォー・ツー(4-4-2)のチームが多かったですし、前にすごい強いフォワードが絶対にいました。だからロングボールを蹴って、そのこぼれ球をどれだけ拾うかっていうところをすごく言われたんです。なので、ロングボールがフォワードに行った時に、周りからは『ギャンブル!』って言われて、それで前に行くか、後ろに行くか、どっちかに走れっていうことだったと思います。それは日本では言われたことがなかったので『すごい指示やな』って思いながら走っていました」

 ピッチ上でチームメイトたちに「ギャンブル!」と言われても、なかなか前に行く勇気を持つのは難しかっただろう。前に出るということは、自分の背後のスペースが広くなる。その状況でボールが自分の後ろに流れてしまえば、あとは最終ラインだけになるからだ。「だから、ボールの状況を見て、どういう状況か、どういうボールなのかをしっかり観察する必要があったので、それは常に見ていましたね」と、ロングボールを見極める意識が強くなったという。

 ちなみに、この時のチームメイトというのは、世界選抜と表現しても差し支えないメンバーがいた。2003-04シーズンにアーセナルはプレミアリーグで無敗優勝を成し遂げるが、元フランス代表FWティエリ・アンリ氏や元オランダ代表FWデニス・ベルカンプ氏、元フランス代表MFパトリック・ヴィエラ氏ら、中心メンバーはすでにこの時から在籍していたのだ。特に印象に残っている選手として、稲本氏が挙げたのは、オランダの天才だった。

「いろんな国、特にフランス人の方が多かったですけど、当時一番すごかったのはベルカンプですね。技術とか身体の強さとか速さだとか、バスもすごかったです。試合とか練習とかを見ていて、『これはマネできないな』っていうふうには思いました」

飛行機に乗れなかった世界的なスター選手

 世界的なスター選手として知られるベルカンプ氏には、飛行機に乗れなかったという逸話があるが、これは都市伝説ではなく本当だったと、チームメイトだった稲本氏は言う。

「チャンピオンズ・リーグの試合でアウェーに行く時などは、もう2日、3日ぐらい前から一人で車や電車で向かっているんです。チームとしても、彼が試合にいるかいないかではもう全然違います。イギリスは島国なので、多少大変な部分があったと思いますが、それでも多分2、3日かければ行けたのでチームも認めていましたね。試合をやって、また2、3日かけて帰る。さすがにここまでの特別待遇の人は、その後もいませんでしたし、これからもなかなか出てこないんじゃないですかね」

 現在、稲本氏は指導者となり、将来的にはプロのトップチームで指揮をすることも目標に掲げている。最近でも日本のユース年代のチームが、欧州の名門の下部組織と指導者同士がつながりをもっていたことで練習試合を行うことがあったが、稲本氏も将来的にクラブ間のパイプ役になるかもしれない。

 アーセナル時代のチームメイトたちを含め、海外の選手たちとも連絡を取り合っているという。「今でも、インスタでつながっている選手はいます。僕が引退を発表した時のように、何かあった時にお互いにメッセージを送りあったりするくらいですけど、そういうつながりが持てているのはSNSのおかげですよ。なかったら多分、つながれていないと思うので」と言い、「これからは多分、世界はもっともっと狭くなっていくでしょう。その時にヨーロッパ、海外の人とのつながり、横の広がりがあってコミュニケーションが取れるアドバンテージはあると思ってます」と、今後も現役時代にできた縁を大事にしていくと話した。

 アーセナルを皮切りに、稲本氏はフルハム、WBA、カーディフ・シティといったクラブ、さらにトルコ1部ガラタサライ、ドイツ1部フランクフルト、フランス1部スタッド・レンヌといったクラブに在籍した。今でこそ日本代表は海外組が多数を占めているものの、稲本氏が海外挑戦をした時には海外組は多くなった。海外で在籍したほとんどのクラブが、稲本氏のあとにも日本人選手を獲得しているが、これは日本人サッカー選手の良いイメージを稲本氏が残せたからにも要因があるだろう。

 この冬の移籍市場ではスコットランド1部セルティックから、日本代表FW古橋亨梧がレンヌに加入したが「やっぱり、ちょっと嬉しいですよね。日本人があそこでやってくれるというのは。僕は半年しかいなかったのですが、すごく良い施設があったり、街並みもきれいだったりで、生活もしやすかったです」と目を細める。

 そして、かつて所属したクラブに日本人選手が加わることについて「ある程度は日本人のパーソナリティーであったり、日本人の性格もわかって獲得してくれていると思いますからね。少しばかりは、僕も貢献できたのかなと思いますけど」と前置きをし、「セルティックに続いて、レンヌでも結果を出せれば、もっともっと上のクラブにも行けるんじゃないかと思うので頑張ってほしいですね」と、日本代表にも定着しつつある後輩にエールを送った。

(河合 拓 / Taku Kawai)



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