苦労人30歳ファンタジスタが初の海外挑戦 恩師のもとで新境地“開拓”なるか【コラム】
野津田岳人は手倉森誠監督が指揮を執るタイ1部パトゥムへ移籍
今季J1優勝候補に挙げられながら、18試合終了時点で首位・町田ゼルビアと9ポイント差の勝ち点29で5位と、やや想定外の位置にとどまっているサンフレッチェ広島。ここへきて日本代表・川村拓夢が欧州移籍を決断。その少し前に代表経験のある野津田岳人がチームを離脱した。
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6月6日に30歳の誕生日を迎えた彼は、2016年リオデジャネイロ五輪に挑んだU-23日本代表時代の恩師・手倉森誠監督が指揮を執るタイ1部・パトゥム・ユナイテッドからオファーを受け、サッカー人生初の海外挑戦を決意。20日に完全移籍が正式に発表されたのだ。
広島ユース時代に森山佳郎監督(現ベガルタ仙台)によって鍛え上げられた野津田は2013年にトップ昇格。その頃は「日本サッカー界を担う逸材」と評されていた。同期入団の浅野拓磨(ボーフム)に比べてテクニックやアイデアははるかに上。傑出したファンタジスタの未来は希望に満ちあふれていた。
しかしながら、徐々に広島で出番が減少し、2016年夏にはアルビレックス新潟へ最初のレンタル移籍に踏み切る。そこから清水エスパルス、ベガルタ仙台、ヴァンフォーレ甲府と合計4度のレンタルを繰り返し、2022年に古巣・広島に2度目の復帰を果たした。
そのタイミングで就任したのが、ミヒャエル・スキッベ現監督。かつてシャルケやドルトムントでユース育成に携わり、2002年日韓ワールドカップで準優勝したドイツ代表のルディ・フェラー監督の下で参謀役を務めた経験のある指揮官は野津田をボランチの主軸に抜擢。その活躍ぶりが評価され、2022年E-1選手権ではかつての恩師・森保一監督が率いる日本代表にも選ばれるに至った。
「森保さんや横内(昭展=現ジュビロ磐田監督)さん、下田(崇=GKコーチ)さんと会えて、すごく懐かしいなという気がしました。ずっと代表になりたいという目標は掲げていましたけど、(J2甲府にいた)1年前から想像すると考えられないこと。でも自分は甲府ですごく変われたし、攻撃面だけじゃなくて、守備のポジショニングや全体のゲームを読む力を磨くことができた。それを広島に戻ってからも伸ばせていると思います」
本人も目を輝かせていたが、紆余曲折の末にようやく潜在能力を開花させられるところまで来たのは確か。苦労人は30歳を手前にして異彩を放つと大いに期待された。
結局のところ代表定着は叶わなかったものの、その後もチームではコンスタントにプレー。クラブレジェンドの森﨑浩司が背負っていた7番の継承者に相応しい存在感を示せる選手になったと見られていた。
ところが、迎えた2024年。野津田は開幕からスタメンを外れ、ベンチに座る日々を強いられる。ここまででJ1のゲームに出たのはわずか4試合。スタメンは5月19日の京都サンガ戦1試合にとどまっている。
「正直、今季は広島のサッカーがちょっと変わりましたね。『より速く・鋭く・シンプルに』というスタイルに切り替わってきた。その結果、ゆっくりつないで、自分たちで攻撃を構築していくという感じじゃなくなった。チームもその形である程度の結果を出しているので、自分自身も適応していかないといけないと感じています。ただ、僕自身のやるべきことは間違っていないと思う。ピッチに立った時に行き詰った状況をしっかり変えられるようにしたいと思っていますし、今のチームの勢いに入り込むことが課題。そこに取り組んでいます」
6月のYBCルヴァンカップ・FC東京戦の際、野津田は努めて客観的に自身の現状を語っていた。彼が言うように、今季の広島は大橋祐紀の加入もあって、彼と加藤陸次樹の最前線目がけてタテのボールを供給する回数が増え、より推進力を前面に押し出すスタイルにシフトしている。その結果、中盤で支配しながらリズムを作るタイプの野津田の出番が減少。コンディションが上がり切らない満田誠もベンチスタートが多くなったと言える。
熾烈な競争の中でも、野津田は決してめげることはなかった。というのも、38歳の大ベテラン・青山敏弘がプロフェッショナル精神を背中で示しているからだ。スキッベ体制発足後の青山は出番が激減。ベンチ外も多くなっている。それでも決して手を抜かず、つねに100%の力を練習から示している。そんな偉大な先輩を目の当たりにしていれば、モチベーション低下など許されないだろう。
クラブのレジェンド青山敏弘が見せる背中「広島のすごいところ」
「アオさんはメチャクチャ頑張っていますし、そういう選手がいるのが広島のすごいところ。みんなで底上げできたらいいと思います」と野津田は自らに言い聞かせるように語っていた。それだけ広島愛が強いのだ。
けれども、試合に出たいという思いは募る一方だったに違いない。「やっぱり出たいし、それだけの自信がある」とも本人も語っていた。そのタイミングで手倉森監督から直々に誘いがあったのだから、断るという選択にはならないだろう。リオ五輪の時、野津田は18人に入れず、予備登録の一員ではあったが、指揮官は彼の傑出した攻撃センスを認めていたのだろう。それを再確認できたことも、心が動く大きなポイントになったはずだ。
パトゥムは23-24シーズンタイ1部で4位。今季はAFCチャンピオンズリーグには出場できないが、24-25シーズンはその領域を目指して8月から戦いをスタートさせることになる。野津田がこのタイミングで移籍すれば、プレシーズンからしっかりとチームや環境に適応できるし、タイ特有のリズムやサッカースタイルにも合わせられるはずだ。
タイ人選手はテクニカルな選手が多く、野津田のようなタイプは大いに歓迎されるだろう。そこで再び輝きを放つことができれば、本人も完全燃焼できるはず。広島では持てる能力を出し切ったとは言い切れない印象もあっただけに、30代での新たなチャレンジでブレイクを果たしてほしいものである。
野津田と同じリオ世代を見ると、久保裕也(シンシナティ)はアメリカでボランチとして新境地を開拓しているし、矢島慎也(清水エスパルス)のように複数クラブを経て今季赴いた新天地でJ1昇格請負人になろうとしている選手もいる。
もちろん欧州で活躍する遠藤航(リバプール)、南野拓実(ASモナコ)のようなトップ選手もいるが、それぞれに与えられた環境で自分のベストを尽くそうとしている。野津田もタイという未知なる国でこれまでとは違ったキャリアを形成できれば理想的。そうなることを切に願いたいものである。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。