ドイツで極度のホームシックも経験 なぜ長谷部誠は40歳まで現役を続けられたのか【コラム】

今季限りで現影木を引退する長谷部誠【写真:Getty Images】
今季限りで現影木を引退する長谷部誠【写真:Getty Images】

10代の頃は茶髪も“チャラ男”のような言動はなし

 ドイツ1部フランクフルトの元日本代表MF長谷部誠は、4月17日に今季限りでの現役引退を発表した。40歳まで世界トップレベルで戦い続けた男と支えたものとは――。(取材・文=島崎英純)。

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 長谷部誠が藤枝東高校からJリーグの浦和レッズへ2002年に加入してから今まで取材をしてきた筆者から見ると、彼の印象は一貫して変わっていない。10代の頃の彼はたしかに茶髪だったが、いわゆる“チャラ男”と称されるような言動や、それに値する行為を見聞きしたこともない。

 負けん気は強かった。高校時代までにさしたる実績がなかったにもかかわらず、練習では自身のことをアピールし続けていたし、セカンドチームのゲームで控えGKと彼だけが出場機会を与えられなかった時には涙を流して悔しがった。ただ、後年に本人に当時の思いを聞くと、プロのプレーレベルに戸惑い、到底成功は望めないとなかば諦めていたという。ただ、その本心とは裏腹に表向きの彼はどこまでもがむしゃらで、果敢に勝負する姿勢を崩さなかった。

 プロ2年目からコンスタントに出場機会を得ると、長谷部の自信はいい意味で増幅されていった。当時の浦和は元日本代表監督を務めたハンス・オフトがチーム改革を進め、2004年シーズンからは選手OBで元ドイツ代表DFギド・ブッフバルトが指揮を引き継いで精力的な選手補強を敢行してトップを目指し始めていた。

 ちなみに浦和は2003年シーズンにヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)を制してクラブ史上初タイトルを獲得したが、長谷部は決勝の鹿島アントラーズ戦で日本代表クラスの選手が先発して自身が控えに回ったことを今でも悔しがっていて、「正直、『タイトルを獲った!』という気持ちにはなれなかった」と吐露している。

 浦和に加入した当初の長谷部はトップ下のポジションにこだわりを持っていた。攻撃のタクトを振るうこのポジションの役割にやり甲斐を感じていて、最も好きなプレーアクションは「スルーパスを出した時」と語っていた。また、スキーのスラローマーのようなドリブルは非常にテクニカルで、相手の隙間を縫うようにスルスルと前進するその挙動は彼の特長を端的に表していたと思う。その後はポジションを一段下げてボランチでのプレーが増えたが、むしろロングディスタンスのスラロームドリブルは一層脅威を増し、彼自身も今ポジションでの手応えを確実に掴んだように見えた。

“鬼軍曹”マガトから受けた試練

 長谷部が在籍した時代の浦和は先述したナビスコカップ制覇を境に、天皇杯、Jリーグ、そしてAFCチャンピオンズリーグ(ACL)のタイトルを総なめにした。そのチームの中軸として活躍した彼は2008年冬にドイツ1部ブンデスリーガのヴォルフスブルクに完全移籍するのだが、ここで新たな試練と直面する。

 遠い異国の地、異文化での生活、意味を介せない言語、異なるスタイルを有するリーグでのプレーなど、数多くの環境変化に直面した長谷部は極度のホームシックに陥った。ドイツに渡って1か月も経たないうちに「日本へ帰りたい」と思い、当時はLINEなどの無料通話ツールが存在しなかったことで、家族と頻繁に交わした国際電話の通話料は1か月に数十万円を超えたという。

 ただ、彼はそれを周囲に悟られるのを嫌い、表向きは飄々とした態度を貫いていた。弱みを見せないのも彼のプライドであり、その矜持も昔と今とで変わらない。

 当時のヴォルフスブルクを指揮していたのは“鬼軍曹”というあだ名を付けられたフェリックス・マガト監督(バイエルン・ミュンヘン、シャルケなどの監督職を歴任)で、加入当初に日本人のドイツ語通訳を伴ってトレーニングに参加した長谷部に対し、「外部者(通訳)の出入りは許さない。ミーティングや指示はすべてドイツ語で行う。ここでプレーするならば、まずはドイツ語を覚えろ」と一喝した。

 マガトは公式戦でセットプレーから失点した場合は試合後に出場選手へ罰走を課した。ドイツが理解できなかった当時の長谷部は一体何キロ走らされるのかが分からずに脂汗を流しながらランニングしたらしい。しかしのちにチームメイトに聞いたところ、そもそもマガトはドイツ語でも選手に走行距離をはっきり明示していなかったという、笑い話なのか恐ろしい話なのか分からない逸話もある。

 長谷部がマガトから受けた試練はまだある。チーム加入早々にサイドアタッカー、もしくはサイドバックにポジションコンバートされた長谷部は、その順応に苦しんだ。日本でプレーしていた時代は中央エリアでしかプレーしてこなかった彼がサイドエリアでのタスクをブンデスリーガの世界で任されたのだから、その苦労も容易に想像できる。

 ただし、長谷部が加入したシーズン(2007-08シーズン)のヴォルフスブルクはバイエルン・ミュンヘンやボルシア・ドルトムントといった強豪クラブを押しのけてクラブ史上初のリーグタイトルを獲得したチームで、主力メンバーは各国の代表で占められ、長谷部が希望していたトップ下やボランチには優秀な選手たちがひしめいていた。

 そんななかで、長谷部が新たなポジションに徐々に順応していったのはさすがだった。浦和時代にはほとんど見たことのないクロスをゴール前に上げ、当時2トップを組んでいたブラジル代表FWグラフィッチやボスニア・ヘルツェゴビナ代表FWエディン・ジェコらをアシストしてブンデスリーガ優勝に貢献した。

2017年のバイエルン戦では出術実施の大怪我を負った【写真:Getty Images】
2017年のバイエルン戦では出術実施の大怪我を負った【写真:Getty Images】

怪我に直面し、プレーレベルを正しく引き上げたことが奏功

 その後、長谷部は2012-13シーズンにさらなる飛躍を期してイングランド1部プレミアリーグへの移籍を模索するも、その動きをマガトに察知され、ゼネラルマネジャー(GM)職も兼任していた指揮官からレギュラーポジションを剥奪されてしまう。開幕から8試合連続ベンチ外という苦難に直面したが、マガトが成績不振で解任されると再び右サイドアタッカーのポジションに就いてシーズン終了までチームに尽くした。

 個人的にはこの翌シーズンから、長谷部はプロ選手キャリアの岐路に立ったと思っている。ヴォルフスブルクから同一カテゴリーのニュルンベルクへの移籍を決断したのはボランチでのプレーを希望したからだが、チームは前半戦未勝利に終わって結果を果たせず、翌年1月にキャリアで最も深刻な右膝半月板損傷の重傷を負って戦線を離脱し、チームも2部へ降格した。

 膝を負傷した時の長谷部の年齢は30歳だった。昨今のブンデスリーガは選手の若年化が進んでおり、三十路を越えても1部クラブでコンスタントにプレーできる選手は年々減少しつつある。そんななかでの大怪我、そして所属クラブは2部に降格と、長谷部としてはヨーロッパからの”撤退“を真剣に考える時期でもあった。

 ただ、翌2014-15シーズンにフランクフルトへ2年契約で完全移籍してからの歩みは周知のとおりだ。特に2015-16シーズン途中にニコ・コバチが指揮官に就任して長谷部を3バックのリベロにコンバートしてからの進化には目を見張るものがあった。

 ただし、長谷部はフランクフルト加入後も再び右膝を痛めている。2017年3月のバイエルン戦でクリアした際に右膝がゴールポストに直撃し、再び同箇所の手術を余儀なくされたのだ。この時、コバチ監督は長谷部について、「あと1年最後までプレーできるように、気を配らなければいけない」と語り、早期現役引退の可能性まで示唆していた。

 当時33歳だった長谷部は慢性的な膝の痛みを抱えていて、イメージ通りのプレーができないと吐露していた。運動量が若干軽減されるリベロのポジションであってもその不安は拭えず、本人もブンデスリーガの舞台で長くプレーできないことを自覚している節もあった。

 それでも長谷部が40歳までブンデスリーガの第一線でプレーし続けられた理由は明確にある。日常生活での節制、たゆまぬトレーニングなどはもちろんだが、そもそも長谷部は年齢を重ね、抗いがたい怪我にも直面した結果、そのプレーレベルを正しく引き上げていったように思うのだ。

敵将も“40歳で先発ボランチ”に脱帽「信じられない」

 リベロの位置から繰り出される正確無比なパスは10代の頃に狙い続けてきたスルーパスをロングレンジに改めたものだ。また、相手FWがハイプレスを掛けてきた時に回避して前進するモーションはまさにスラロームドリブル。広範囲を視認して状況把握する能力はボランチでプレーしていたエリアよりもむしろ相手の監視から外れており、より神経を研ぎ澄ますことができる。卓越した予測を駆使した空中戦能力やハードタックルなどのディフェンス技術は確かに30代後半に入ってから凄みを増していったが、彼が元々兼ね備えていたベーシックスキルは不惑の年齢に達した今季もたしかに生かされ、それがドイツ・ブンデスリーガの舞台で堂々と戦い続けられる原動力になっていた。

 長谷部は4月13日、ブンデスリーガ第29節シュトットガルト戦で久しぶりに先発してボランチでプレーした。対戦相手の一員だった原口元気(試合は不出場)はベンチに立つシュトットガルトの指揮官、セバスチャン・ヘーネス監督にこう尋ねられたという。

「監督が『長谷部は何歳なんだ?』と聞くから、『40歳になりましたよ』と答えたら、監督はこう言ったんです。『信じられない…。40歳で、しかもボランチで先発してるんだぞ。どんな鍛錬をしたら、あの歳で、あんなふうに動けるんだ?』って」

 そのシュトットガルト戦から5日後、長谷部は自らの言葉で、「第二の故郷」というドイツの言葉で、今季限りでの引退を表明した。

 約22年の現役生活は決して順風満帆ではなかった。異国での生活に戸惑い、厳格な指揮官に鍛え上げられ、痛みを抱える足に鞭打ってファイティングポーズを取り続けた。10代の頃に出会い、40代に達した彼の印象は全く変わっていない。長谷部誠という人物はどこまでも真面目で、努力を隠し、負けず嫌いで、何よりもサッカーが好きな、一途なプロサッカープレーヤーだった。

 一心不乱に駆け抜けたプロキャリアは必ず、彼の次なる道を支える光になる。

(島崎英純/Hidezumi Shimazaki)



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島崎英純

1970年生まれ。2001年7月から06年7月までサッカー専門誌『週刊サッカーダイジェスト』編集部に勤務し、5年間、浦和レッズ担当を務めた。06年8月よりフリーライターとして活動を開始。著書に『浦和再生』(講談社)。また、浦和OBの福田正博氏とともにウェブマガジン『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)を配信しており、浦和レッズ関連の情報や動画、選手コラムなどを日々更新している。2018年3月より、ドイツに拠点を移してヨーロッパ・サッカーシーンの取材を中心に活動。

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