39年前のホーム北朝鮮戦は“まるでアウェー” 平壌で洗礼も選手たちは平然「緊張はなかった」【コラム】

日本代表と北朝鮮代表の過去対戦を回想(写真は1992年)【写真:Getty Images】
日本代表と北朝鮮代表の過去対戦を回想(写真は1992年)【写真:Getty Images】

85年3月21日の国立に6、7割は北朝鮮の応援団

 日本代表のワールドカップ(W杯)への道を辿ると、始まりはメキシコでの1986年大会となる。当時初のW杯出場を目指す日本にとって、アジア1次予選で大きな壁となったのが北朝鮮だった。

 個々に力のある選手が出てきたとはいえ、84年ロサンゼルス五輪予選で惨敗するなど日本代表の低迷期は続いていた。相手は世界舞台から遠ざかっていたとはいえ、66年W杯でベスト8に入ったアジア屈指の強豪。82年W杯予選でも中立地の香港で0-1と敗れるなど、まだ実力差があったのは事実だ。

 39年前、今回と同じ3月21日の国立競技場は、まるでアウェーだった。スタンドの6、7割は北朝鮮の応援団。雨でピッチがぬかるむ悪条件で、序盤から押し込まれた。守備に時間をさかれるなか、対北朝鮮4戦目にして初ゴールが生まれたのは、前半20分だった。

 MF西村昭宏が相手のパスをカットし、左足で前線へパス。「何かが起こることを願って、スペースに出した」ボールはエリア手前の水たまりで止まり、走りこんだのはFW原博実。右足でボールを浮かせて相手をかわすと、そのまま滑り込みながらシュート。「アジアの核弾頭」と恐れられたヘディングの名手が、巧みな技術で先制点を奪った。

 その後、北朝鮮の猛攻を最後まで集中力を切らさずにシャットアウト。ホームで1-0と先勝するというアドバンテージを持ったが、1か月後のアウェー戦を迎えるまでが大変だった。

 まずはピッチ対策。会場となる金日成競技場は当時としては珍しい人工芝だった。ただ、下見はできず、情報は限られていた。当時、日本代表のユニホームなど用具はアディダス、プーマなど3社が1年ごとに持ち回りで提供していた。この年のアシックスが人工芝用のスパイクを制作。3パターンを用意して、選手たちが試し履きをした。練習も都内で唯一人工芝だった東京ガス深川グラウンドで行った。

 移動は北京経由。北京に宿泊し、ビザをとってからプロペラ機で平壌に向かった。外国人用ホテルは警備も厳しく、外出も許されなかった。もっとも、日本円が使える自動販売機もあり「特に不自由は感じなかった」と西村。食事も「冷麺がおいしかった」と主将の加藤久は振り返った。

 前日練習では予想以上に固い人工芝に困惑。試合前に水を撒くように要求したが「少しは撒いたけれど、ピッチは固いまま。思っていたのとは全然違った」とFWの水沼貴史。加藤は「岡村(新太郎コーチ)さんがピッチが広いといって、歩測したら確かに10メートルぐらい縦が長かった」と話す。何から何まで「アウェー」だったのだ。

アウェー戦は想定外多数も「特に緊張はなかった」

 想定外のことが次々と起こったが、両国の関係が今ほど悪くなかったからか、選手たちは平然としていた。明治大学時代の79年に日本代表のソ連(ソビエト連邦)、北朝鮮遠征に参加し、北朝鮮代表戦(0-0)も経験している木村和司は「特に緊張はなかった」と話す。在日朝鮮蹴球団と練習試合をすることが多かったという読売の加藤は「(在日で初めて北朝鮮代表になった)キム・グァンホは友だちだったし、不安もなかった。試合に集中していた」という。

 北朝鮮を下した日本はシンガポールにも連勝してアジア1次予選を突破、2次予選で香港を退け、最終予選で韓国とW杯をかけて対戦する。平壌での負傷退場から半年、ようやく調子を取り戻した木村が伝説のフリーキックを決めるが、あと一歩及ばずW杯初出場は逃した。それでも、日本のファンが夢を見ることができたのは、北朝鮮と平壌で引き分けた試合があったからだ。

 続く90年W杯イタリア大会アジア1次予選ではアウェーで0-2と完敗。GK松永成立、DF井原正巳、MF柱谷哲二ら「ドーハの悲劇」を体験する若いメンバーとともに戦った水沼は「90年予選の時は食事が合わずにカップラーメンを食べて試合をしていた」という経験を踏まえ「森保(一)監督の言うように想定外のことが起こるのが北朝鮮戦」と話した。

 39年前と同じ3月21日にホーム戦を行い、今回は直後の26日にアウェー戦に臨む日本代表。「ホームで勝っていたのが大きかった。勝たなければいけない試合で和司を失ったら影響は大きかった」と西村が話すように、場合によっては初戦のハンデが重くのしかかる可能性もある。まずはホームでの勝利が重要になる。

 過去4戦無得点で勝ち星なしという平壌での北朝鮮戦だが、加藤は「いろいろなことに惑わされずに、試合にだけ集中すること。森保監督はそういうことも考えて長友を復帰させたのだろう」。日産での遠征を含め3回平壌で試合をしている水沼も「今の選手たちは経験豊富だし、何が起こるか分からないということを想定して臨めば大丈夫」と期待した。かつて平壌で北朝鮮から勝ち点1を奪った「森(孝慈)ファミリー」の選手たちも「森保ジャパン」にエールを送っている。(敬称略)

(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)



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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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