2戦3発FC東京の荒木遼太郎が遂げた進化 新天地で“挨拶代わり”のゴールパフォ秘話【コラム】
今季からFC東京に加入した荒木は2試合連続ゴールをマーク
3桁だけでなく4桁にも到達する数字がずらりと並ぶ。それらのすべてが、新天地のFC東京で躍動する22歳の荒木遼太郎が、昨シーズンまで所属した鹿島アントラーズで味わった苦しみや悔しさを象徴している。
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2試合を終えた今シーズンで、敵地でのセレッソ大阪戦、ホームでのサンフレッチェ広島戦でトップ下のポジションで先発した荒木は、ともに90分間フル出場を果たしている。2戦連続の先発は2022年9月以来、533日ぶり。2戦連続の先発フル出場に至っては2021年4月以来、実に1043日ぶりだった。
まだある。FC東京が2試合で決めた3ゴールは、すべて荒木によるもの。セレッソ戦の34分に決めた移籍後初ゴールは、鹿島で最後にゴールを決めた2022年3月以来、720日ぶりの一撃だった。75分にもゴールを決めた荒木は、2021年8月以来、923日ぶり3度目となる1試合複数ゴールをマークしている。
さらに広島戦の後半26分には同年3月以来、1088日ぶりとなる2試合連続ゴールを決めた。すべてのゴールがFC東京の窮地を救う同点弾であり、特に広島戦での一撃には、身長170センチ体重60キロと小柄にうつる荒木の体に搭載されたサッカーセンスとテクニック、状況判断力、そして高い決定力が凝縮されていた。
自陣の中央でボールを奪った広島のMF川村拓夢が、左サイドのMF東俊希に展開。東が頭で落としたボールを再び川村が、ワンタッチでFC東京の最終ラインの裏へ通し、東をさらに走らせようとした直後だった。
川村のパスがずれてしまい、戻りかけていたDF長友佑都にカットされる。長友は前方にいたFW仲川輝人にボールを預け、自らはすかさずスプリントを開始する。このとき、東が上がった後に生じたスペースを確認した荒木は、ここを使って攻め上がってほしい、というメッセージを込めて右手で指示を出している。
以心伝心とばかりに、仲川からリターンパスを受けた長友が、ペナルティーエリア内の右側に進入。慌ててマークにきた広島のキャプテン、DF佐々木翔の眼前でマイナス方向へグラウンダーのクロスを送った。パスの行き先には広島のDF荒木隼人を背負う形で、ニアに走り込んできていた荒木がいた。
次の瞬間、イレギュラーな事態が起こる。広島の3バックの中央を担う荒木が言う。
「クロスに対して、自分たちの手前で味方がちょっと触ってボールが流れてしまった」
自らのキックミスから招いたFC東京のカウンターを食い止めようと、ペナルティーエリア内へ必死に戻ってきたのが川村だった。しかし、クリアを試みたその右足はボールをかすめただけに終わってしまう。
結果としてボールは荒木の正面ではなく、右足の足もとに収まった。その後の判断を荒木はこう振り返る。
「相手ゴールが目の前だったので、かわし切らずに、ちょっとだけ外してからシュートを打とうと思った」
シュートを打たすまいと、体を密着させていた広島の荒木にはどのように映っていたのか。
「自分が意図していないところにボールが入った次の瞬間に、相手の体に隠れてボールが見えなくなった。その隙に右足を振り抜かれてしまったというか、自分がプレーしていたときの感覚はそうでした」
自分の体がブラインドになり、ボールを隠していたかどうかは恐らくわかっていない。それでも荒木は自らがシュートを放つスペースを作り出すために、とっさの判断で右足の足裏を駆使し始めた。
まずはボールを引いて、同時に体をマーカーの体にぶつける。さらにその反動で体もボールも前へ押し戻す、いわゆるプルプッシュの動きで反転できるスペースを作り出すと、迷わずに右足を振り抜いた。
マークしていた荒木だけでなく、プルプッシュの動きにつられて、それまでふさいでいたニアポスト付近をわずかながら離れてしまった広島の守護神・大迫敬介も反応できない。大迫をカバーしようとゴールライン上にポジションを取った川村の頭上を打ち抜く形で、強烈な一撃がニアのトップコーナーを突き刺さった。
鹿島で苦境に立たされるも新天地で「71」番を付けて心機一転
「流れを変えるにはゴールを決めるしかないと思っていたので、あの時間帯に決められてよかったです」
殊勲のゴールをこう振り返った荒木は、直前にポジションをトップ下からひとつ前に上げていた。後半24分に先制されたFC東京のピーター・クラモフスキー監督は、直後の同25分に1トップのディエゴ・オリヴェイラと左ウイングの遠藤渓太を下げ、MF小泉慶とFWジャジャ・シルバを投入した。
最前線の中央に荒木が、トップ下にそれまでボランチを務めていたキャプテンの松木玖生が入る。いわゆるゼロトップ的な布陣を、指揮官は「活用できる交代策のひとつとして考えていた」と明かし、さらにこう続けた。
「失点した直後に、彼らのメンタリティーやキャラクターをしっかり出して戦ってくれた」
クラモフスキー監督が称賛した一人が、不慣れなはずのポジションにすぐに順応するセンスを発揮し、そこへ状況判断力とテクニック、そしてストライカーの決定力を融合させた荒木だったのは言うまでもない。
その荒木について、指揮官は2-2で引き分けたセレッソとの開幕戦後に「タレント性も今後のポテンシャルもあるが、何よりもいまはフットボールを楽しんでいるように見える」と評していた。
福岡県の名門・東福岡高から鹿島入りした荒木は、2年目の2021シーズンに10ゴールをマーク。1994シーズンの城彰二(ジェフ市原)以来、27年ぶりに10代での2桁ゴールを達成し、同シーズンのベストヤングプレーヤー賞に輝いたJリーグアウォーズでは「鹿島で活躍して海外へ、という気持ちもある」と未来を見すえていた。
しかし、背番号「10」を託された2022シーズンは、腰椎椎間板ヘルニアで長期離脱を強いられた影響もあって出場13試合、わずか1ゴールにとどまる。コンディションを整え、捲土重来を期した昨シーズンも13試合で無得点。プレー時間は2022シーズンの530分から447分へ、さらに減ってしまった。
迎えたオフ。プレー環境を変えようと決意した荒木は、FC東京への期限付き移籍を決める。1月中旬の新体制発表会見。荒木は「交渉の席で監督と話して、フォーメーションやスタイルが自分に合いそうかなと思った」と移籍の経緯を明かすとともに、新天地での背番号を「71」にした意外で、かつユニークな理由も語っている。
「鹿島で一緒にやっていて、めっちゃ仲がよかった中村亮太朗が甲府へ行ったときに『71番』をつけていて、すごくいいなと思ったので『真似するね』と連絡しました」
余談になるが、2022シーズンの鹿島で意気投合した中村は、ヴァンフォーレ甲府へ期限付き移籍した昨シーズンに続いて、清水エスパルスでプレーする今シーズンも「71」を背負っている。
J2の舞台で戦う盟友へ届け、という思いも込めた新天地での活躍。開幕戦後に「これでやっとFC東京のサポーターのみなさんに自分を示せたというか、受け入れてくれるのかなと感じました」と話していた荒木は、ホーム開幕戦となる広島との一戦へ向けて、密かにゴールパフォーマンスを用意していた。
ゴールパフォーマンスに込められた意味
実際にゴールを決めた直後には、興奮のあまりにそれを忘れていたのだろう。ゴール裏のスタンドを青赤で染めたサポーターのもとへ、駆けだしていこうとした矢先に、仲川の言葉でハッと我に返った。
「テルくんに『勝ちにいくぞ』と言われて。あっ、そうだったと思って」
引き分けではなく勝ちに行く。3万2274人が駆けつけたホーム開幕戦の目的を思い出した荒木は、右手を体の右上から斜めの左下へゆっくりと下げながら、同時に左手を腰の後ろ側に回して頭を下げた。
エレガントに映った仕草はボウ&スクレープと呼ばれる、ヨーロッパの貴族社会における伝統的な男性によるお辞儀だった。挨拶代わりのゴールパフォーマンスの意味を、ちょっぴり照れながらこう打ち明けている。
「ホームでやろうかなと考えていました。よろしくお願いします、ということで」
試合は引き分けに終わった。開幕戦に続いて勝ち切れなかったFC東京のなかで、昨シーズンまでにはなかった輝きを加えながら、個人的にも存在感を放った荒木は、試合後に「本当に自信がついた」と語っている。
「今日は試合の入りから、結構自分のプレーを出せた。コンディションもボールタッチもすごくいい感触だったので、ゴール前でも本当に冷静に決められました。チームとしても1試合目、2試合目とどんどん良くなっているので、3試合目はさらに良くして、勝ってサポーターのみなさんと喜び合えたら」
3月9日の次節は再びホームの味の素スタジアムに、昨シーズンの王者、ヴィッセル神戸を迎える。広島戦後のフラッシュインタビューを「自分のゴールで勝てるように」と締めた荒木にとって、2021年3月以来、1085日ぶり2度目となる3試合連続ゴールを達成してもおそらく通過点。悩み、もがいたなかでようやく見つけた居場所でさらに自分自身を輝かせ、新天地のFC東京を勝たせるチャレンジを加速させていく。
藤江直人
ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。