新聞1面に“横浜M”「涙が出た」 原稿にならない日本サッカー変えた31年前のJ開幕戦【コラム】

1993年に行われたV川崎と横浜Mの開幕戦【写真:Getty Images】
1993年に行われたV川崎と横浜Mの開幕戦【写真:Getty Images】

1993年「V川崎対横浜M」黄金カード、ベテラン記者が抱いた当時の思い

 Jリーグ開幕戦再び——。32シーズン目のJリーグが2月23日に開幕。25日には16年ぶりにJ1に昇格した東京ヴェルディと横浜F・マリノスが国立競技場で対戦する。1993年5月15日、国立競技場で行われたJリーグ開幕戦と同じ「黄金カード」。31年前、日本サッカー100年の歴史の中でも最も重要な試合の1つを取材した当時の興奮と感動がよみがえる。(文=荻島弘一)

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 今も目を閉じると、国立競技場のスタンドとピッチを駆け巡る眩しい光が浮かぶ。頭の中にTUBEのギタリスト春畑道哉の「J’S THEME」が響く。興奮した。キックオフへのカウントダウンに、心臓が高鳴るのを感じた。ここまでの長い道のり、多くの人の苦労、そして「夢」が「現実」になってからの激動……。主審のホイッスルが聞こえなかったのは、大歓声のせいだけではなかった。

 夢心地、だった。信じられなかった。子供の頃から国立や駒沢で見てきた日本リーグ。スタンドはガラガラだった。高校生の時に選手権が首都圏開催になり、大学生の時にトヨタ杯が始まった。高校生のひたむきなプレーやトップ選手の高度な技術が国立を満員にしたが、日本リーグは相変わらずの低迷を続けていた。

 1984年に日刊スポーツ新聞社に入社し、運よくサッカー担当になった。とはいえ、当時のサッカーは五輪競技の中の1つ。水泳や柔道、ラグビーなどと掛け持ちで、日本リーグの取材は年に数試合だった。デスクからは「サッカーなんか原稿にならない」と怒られ、選手からは「虫メガネで探しても記事がない」と嫌味を言われた。

 読売クラブを筆頭に、サッカー界には「プロ選手」が急増していた。プロ化を望む現場の声も聞いた。それでも、改革が簡単でないことも知った。日本のスポーツ界全体に「プロ」に対するアレルギーがあったし、86年の「全日空ボイコット事件」を取材すると過渡期の課題が山積していた。

 奥寺康彦がドイツから帰国して古河電工に復帰した86-87シーズン、日本リーグは「サラリーマンサッカーの時代は終わった」というポスターを作った。プロ化への決意表明に思えたし、変革に期待もした。日本リーグの森健兒総務主事がつけた道筋を川淵三郎氏が受け継ぐと、一気にプロ化が進んだ。

 足繫く通ったのは、神田小川町の日本リーグ事務局だった。雑居ビル2階にあったオフィスには今のようなセキュリティー設備はなく、入室も自由。たまに断られても、階段の踊り場まで川淵総務主事や木之本興三事務局長の大声は届いた(大事な会議は別の場所でやっていたけれど)。

開幕までの数年は、駆け出しの記者にとって、新鮮な驚きの連続だった。「そんなの無理」「常識外れだ」とデスクや先輩記者に言われながらも、書いた原稿は次々と現実になった。リーグの概要、参加クラブの選定、選手の移籍、外国人選手の獲得……。多くの「特ダネ」も書いたつもりだが、それ以上に「抜かれた」。

 同世代のリーグや協会の関係者と、将来のサッカー界について、プロリーグについて、意見をぶつけあうこともあった。多くの苦労も聞いた。愚痴もあった。それでも、サッカーの未来に危機感を持ち、変えていこうという強い思いがあった。本当に多くの人が、プロリーグ発足に向けて懸命に動いていた。

5・15は日本スポーツ界の伝説として語り継がれる

 プロ化が見えてからは、選手の意識も変わった。プレーに真剣さが増したように思えたし、観客に「見せる」ことを大切にする選手も増えた。90年に帰国した三浦カズには「チームや選手だけじゃない。記者もサッカーだけで食べていけるようになるのが、プロ化なんだ」と言われた。嬉しかったし、未来のために頑張ろうと思えた。

 記念すべき開幕戦の決勝点はラモン・ディアスが決めた。川淵チェアマンがいなければJリーグ誕生はなかったかもしれない。それでも、この試合の主役は彼らだけではなかった。プロを目指して奮闘してきた選手であり、チームであり、舞台を準備したJリーグであり、抽選でチケットを手にした観客であり、テレビの前のファンだった、我々メディアも含め、日本サッカー全体が主役だった。

 覚えているのは1面の原稿を出稿したあと、デスクに「1面のメイン見出しはディアスにしないでほしい」と注文したこと。単なる1試合の勝ち負けではない。たまたまゴールしたのがディアスだったが、勝利したのは横浜マリノスであり、日本サッカーだと思ったからだ。

 翌朝、希望どおりの「横浜M」のメイン凸版を見て、また涙が出た。開幕戦に向けての数年間は、長い記者生活でも最も刺激的で、楽しかった。あの試合はプロ化に向けて努力した先人たちのゴールであり、未来を担う世代の新しいスタート。だからこそ、今でも5・15は色あせないし、日本スポーツ界の伝説として語り継がれる。

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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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