海外も認める存在 革新者・中田英寿の系統を汲む“個性派”のA代表デビューに感じたこと【コラム】

2008年に代表デビューを飾った本田圭佑【写真:徳原隆元】
2008年に代表デビューを飾った本田圭佑【写真:徳原隆元】

【カメラマンの目】本田圭佑に感じた中田英寿と同じメンタリティー

 2008年6月22日、日本代表は南アフリカ・ワールドカップ(W杯)のアジア3次予選最終戦となる第6節でバーレーン代表と対戦した。結果は試合終了間際に内田篤人がゴールを決め、日本が1-0で勝利を挙げている。

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 今振り返れば、この試合は日本の勝敗に加えて注目すべきことがあった。降りしきる雨の中、埼玉スタジアムのピッチで奮闘するホームチームのメンバーの1人に、その後の日本サッカーに多大な影響を及ぼす選手がA代表デビューを果たしていた。

 背番号は「17」。この時はまだ、代表チームにおける背番号に強いこだわりはなかったと思う。そして、のちに金髪が彼の代名詞となるのだが、雨に濡れた髪は黒だった。

 日本サッカーは2021年に協会創立100周年を迎えた。日本サッカーリーグ(JSL)の時代を経て1993年にはプロリーグが誕生し、日本代表は98年フランスW杯に初出場を果たすと、それからアジア予選を突破し続けて7大会連続出場を記録。そうした日本サッカーの発展をゴール裏から撮影していると、その歴史を語るうえで節目となる場面をライブで目にすることにもなる。

 当時、W杯4大会回連続出場を目指していた日本にあって、このバーレーンとの一戦でA代表デビューを果たした背番号17の選手の名前は本田圭佑。当然ながら、このデビュー戦ではまだチームの中心的存在とはなり得ていない。

 しかし、本田は試合を重ねるごとにレギュラーへの序列を上げていき、南アフリカW杯、ブラジルW杯でチームの中心選手として活躍。18年ロシアW杯でもスーパーサブとして存在感を発揮した。日の丸を背負って戦った本田は、相手マークを跳ね返す強靭なフィジカルを備え、正確無比のキックを最大の武器とし、放つシュートも強烈。重要な場面でゴールも決めて日本の攻撃を牽引した。

 そうしたピッチ内での肉体的、技術的な高さに加え、本田はメンタルの強さも併せ持っていた。そのサッカー選手として完成された姿は、1990年代後半から引退する2006年まで、日本サッカーに高い技術と強い精神で革新をもたらした中田英寿に匹敵すると言えるだろう。

代表デビュー戦では17番を着用した【写真:徳原隆元】
代表デビュー戦では17番を着用した【写真:徳原隆元】

外国人カメラマンが私服姿でも「ケイスケ・ホンダ」と認識

 本田が所属したクラブチームに目を向ければ、過去の日本人選手には例がないほど、さまざまな地域でプレーしている。日本人にはあまり馴染のない国でのプレーを選択する姿勢は、並大抵のことでは動じない行動力と野心にあふれた本田の真骨頂だったと言える。

 そうした強烈な個性と歯に衣着せぬ物言いはアンチの存在も生んだが、日本が世界で戦うために必要な要素となる精神面での強さの重要性を改めて強調したという意味では、彼のあふれ出す感情から生じた言葉と行動は、日本サッカーの向上のためには、意味のあるものだったと思う。

 時は流れ、2022年カタールW杯の日本対コスタリカ戦で、解説者としてピッチレベルにいた本田を見つけカメラのシャッターを切った。その際に外国人カメラマン(おそらく東南アジアか中南米のカメラマン)から「彼は誰だ?」と問われるのではなく、「彼はケイスケ・ホンダだろ」と念を押されるように聞かれた。私服姿であってもケイスケ・ホンダは外国人カメラマンが気づく存在だった。

 どんな逆境に晒されても戦う姿勢を貫き通した本田。高いサッカー技術に裏打ちされた圧倒的な存在感で日本サッカーの一時代を築き、その名前を刻んだ名手だった。

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徳原隆元

とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。

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