Jリーグ初代チェアマン川淵三郎がサッカー界・スポーツ界にもたらした功績 「草の根の人たちの遊び場」確保にこだわる訳【コラム】

かつてJリーグチェアマンを務めた川淵三郎氏【写真:徳原隆元】
かつてJリーグチェアマンを務めた川淵三郎氏【写真:徳原隆元】

スポーツ界からは史上3人目となる「文化勲章」を受章

 初代Jリーグチェアマン、日本サッカー協会会長などを歴任した川淵三郎氏の「文化勲章受章を祝う会」が、11月30日に国立競技場で開催された。川淵氏は2015年に「我が国の文化の向上発達に関し、特に功績顕著な方々」(文部科学省)として「文化功労者」に選ばれているが、今回は「勲章」を授与された。

 この「文化勲章」とは、「文化の発達に関し特に顕著な功績のある方」(内閣府)に贈られる勲章で、橘の五弁の花の中央に三つ巴の曲玉を配し、鈕(章と綬の間)にも橘の実と葉が用いられている。

 川淵氏は2023年10月20日に受章が決まったが、スポーツ界から選ばれたのは、競泳で戦後世界記録を作った「フジヤマのトビウオ」古橋広之進氏(故人)、プロ野球の読売巨人軍終身名誉監督「ミスター」長嶋茂雄氏に続いて3人目で、サッカー界出身者としては初となる。

 川淵氏はJリーグのみならず、「bjリーグ」「NBL」の2団体に分かれていた日本バスケットを統合し、「Bリーグ」発足にも尽力したという点で、競技の枠を超えて日本スポーツに貢献したと言えるだろう。

 もちろん、サッカー、バスケット両方のプロリーグ創設において重要な役割を果たしたことは間違いないが、その功績を語る前に、まずはプレーヤーとしても忘れてはならない実績がある。

 1964年の東京五輪で日本はアルゼンチン、ガーナ、イタリアと同じグループになり、上位2チームに入って決勝トーナメント進出を狙った。大会前、イタリアのメンバーにプロサッカー選手が含まれるという疑惑(当時の五輪はアマチュアのみ出場可能)が生じたため、同国は出場を辞退。それでも日本のグループリーグ突破は厳しいと目されていた。

 日本の初戦の相手はアルゼンチン。駒沢陸上競技場に1万7613人を集めて開催された試合で、日本は前半24分に先制点を許してしまう。それでも前半をそのまましのぐと、後半9分に杉山隆一氏が決めて同点に追いつく。ところがその8分後、再び失点してしまい、1-2のまま試合は残り10分となった。

 川淵氏はその日、履いたシューズが足に合わず絶不調。ずっと足元を気にしながらプレーしていて、味方からのパスも出てこなくなったという。だが当時は交代出場が認められておらず、先発した選手はそのまま90分間プレーしなければならなかった。

 ところが後半36分、釜本邦茂氏からの絶好のクロスにヘディングで合わせて同点ゴールを決める。「面白いもので、得点を取ったあとは靴のことなんか気にならなくなった」と、その1分後には小城得達氏の決勝ゴールをアシストし、見事に日本は母国開催のゲームを勝利で飾った。

 そしてこの1勝のおかげで日本は決勝トーナメント進出を決めることができたのだ。決勝トーナメントは初戦のチェコスロバキア戦で敗れてしまったが、1936年ベルリン五輪以来のベスト8進出という快挙を成し遂げた。

何事もそつなくこなすタイプではなく、時に失態を見せてしまうところが愛された

 歴史に残るゴールを挙げた一方で、川淵氏は1968年メキシコ五輪のメンバーから漏れるという屈辱も味わった。また、1970年に選手を引退したのちは、古河電気工業サッカー部監督や日本代表監督代行に就任した一方で古河電気工業の社業に打ち込むものの、1988年に出向を命じられてしまう。

 そこで、川淵氏は一気にサッカー界へと立ち足を移した。1989年に日本サッカー協会(JFA)の「プロリーグ委員会」委員長、1990年「プロリーグ検討委員会」委員長に就任すると、数多くの反対意見を突破して、1993年5月15日のJリーグ開幕に結びつけた。

 豪腕とも言われる押しの強さで物事を推進する一方、Jリーグトップの役職を「チェアマン」と命名するなどキャッチーな感覚を持ち、またJリーグの開幕宣言は「サッカー」ではなく「スポーツ」という言葉を使って広がりを持たせたり、テレビで放送されやすいように言葉数を選んだりという、したたかな計算力も持つ。

 Jリーグの運営については、木之本興三氏(故人)、森健児氏(故人)らの力も大きかった。時に黙って汚れ役を引き受け、川淵氏を盛り上げてきた2人がいてこその辣腕だった面もある。だが、喜怒哀楽、特に「怒」を隠すことなく表に出す派手な振る舞いは、人々の耳目を集め、時代を推進していくという役割には最適の人物だった。

 しかも何事もそつなくこなす、というタイプではなく、時に失態を見せてしまうところが愛された部分でもある。2006年のドイツ・ワールドカップ(W杯)での敗退後、記者会見で次期監督がイビチャ・オシム氏(故人)であることを漏らしてしまう。

 また、2021年には東京五輪の大会組織委員長である森喜朗氏の辞任に伴い、就任を打診されたことを漏らしてしまって、当初は受け入れを表明していたものの、その後撤回している。川淵氏だからこそ、その際の恐縮した様子で人々に許されたと言えるのではないだろうか。

「文化勲章受章を祝う会」後の囲み取材で、川淵氏は「日本のスポーツが発展していけばいい。多くの人がスポーツをエンジョイできればいい。僕はトップアスリートのことをあんまり言ってないのですよ。みなさんは、僕はJリーグを作ってW杯に出場していい成績をあげて、それからBリーグもそれなりの成績を上げている。そこが僕の望む方向だろうと思っておられるようです。それはそれで大事なことではありますけれど、僕はやっぱり草の根の人たちの遊び場、遊びながら自然に身体が鍛えられるという、そういう世の中をこれから作っていかなければならないと。僕の想いはそちらのほうですね。生きている限りは、ボケない限りは、一生懸命それに尽力したいと思います」といつも以上の笑顔を浮かべながら語った。

 12月3日には87歳になるが、なお意気軒昂。いつまでもそのパワーは尽きそうにない。

(森雅史 / Masafumi Mori)



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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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