小野伸二が明かしていた現役生活の悔恨「レアルやバルサでやりたかった」 輝かしい実績と苦悩した大怪我【コラム】

フェイエノールトでUEFA杯を制した小野伸二【写真:Getty Images】
フェイエノールトでUEFA杯を制した小野伸二【写真:Getty Images】

U-17、U-20、五輪、W杯に出場、UEFA主催大会ではタイトル獲得の金字塔

 北海道コンサドーレ札幌の元日本代表MF小野伸二は12月3日のJ1リーグ最終節、古巣の浦和レッズ戦を最後に現役を引退する。44歳の天才MFが迎えるラストマッチに向け、「FOOTBALL ZONE」では「小野伸二特集」を展開する。

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 ヴィッセル神戸のJ1初制覇が決まり、J2降格の1枠も横浜FCにほぼ確定した2023年J1。12月3日の最終節の注目は、26年という長い長いプロキャリアにピリオドを打つ小野伸二の現役ラストマッチだろう。

 コンサドーレが本拠地・札幌ドームで迎え撃つ相手は小野が98年にJリーガーの第1歩を踏み出した浦和レッズ。まさに因縁めいたマッチメイクだと言うしかない。

 遡ること26年前の98年。清水商業高校(現清水桜が丘高校)から鳴り物入りでプロ入りした小野は開幕からスタメンを奪取。華麗なテクニックと創造性溢れるプレーで見る者を魅了した。

 その一挙手一投足に度肝を抜かれた1人が日本代表の岡田武史監督(現JFA副会長)だ。非凡な才能を持つ若い世代に注目していた指揮官は小野と17歳だった市川大祐(清水エスパルストップコーチ)を同年4月の日韓戦(ソウル)でいきなり代表デビューさせる大胆起用に打って出た。

 この2か月後には小野を日本初参戦の98年フランス・ワールドカップ(W杯)メンバーに抜擢。すでにグループステージ敗退が決まってはいたものの、第3戦のジャマイカ戦後半に思い切って彼を投入。18歳の若武者は物怖じすることなくピッチに立ち、巧みな股抜きからシュートを放つ。このワンプレーに類まれなセンスが凝縮されていたと言っていい。

 18歳のW杯出場というのは、バルセロナで少年時代を過ごした久保建英(レアル・ソシエダ)にも果たせなかった快挙だ。小野の場合はそれだけではない。年代別の世界大会も総なめにし、そこで結果を残しているのだ。

 手始めはフランスW杯前に95年U-17W杯(エクアドル)だ。同大会は8強止まりだったが、99年ワールドユース(現U-20W杯=ナイジェリア)では準優勝の快挙を達成。本山雅志(鹿島アントラーズアカデミースカウト)とともにベストイレブンに名を連ねた。小野はシャビ(バルセロナ監督)とともに大会の看板スターと位置づけられ、世界中から脚光を浴びることになったのだ。あれから20年以上が経過し、日本の育成年代が力をつけたとはいえ、99年を超えるチームは出ていない。この時のキャプテン・小野の存在感は圧倒的だった。

 その後、2000年シドニー五輪こそ、99年7月の五輪1次予選のヒザの大ケガの影響で選外になったものの、2002年日韓、2006年ドイツW杯、オーバーエイジ枠で参戦した2004年アテネ五輪と、FIFA主催全大会をフルカバーし、しかも複数回出するという凄まじい実績を残したのである。

 U-17、U-20、五輪、W杯の出場を果たしたという意味では中田英寿や宮本恒靖(JFA専務理事)、小野と同じ黄金世代の高原直泰(沖縄SV代表・監督)、稲本潤一(南葛SC)、現代表の久保なども含まれるが、小野の場合はUEFA主催全大会(当時なかったUEFAカンファレンスリーグを除く)出場、タイトル獲得という金字塔も加わる。それは特筆すべき点だろう。

大怪我も乗り越え飽くなき探求心で浦和復帰後も2度の海外挑戦へ

 ご存じの通り、小野は2001年夏にオランダの名門フェイエノールトへ赴いたが、瞬く間にボランチの定位置を獲得。2002年5月のUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)決勝のボルシア・ドルトムント戦でヨンダール・トマソン(現ブラックバーン監督)の3点目をアシストするスーパーパスを供給。タイトルをもたらした。この歴史的一戦はフェイエノールトのホームであるロッテルダムのデカイプで行われ、町中が異様な熱気と興奮に包まれた。当時の記憶はサポーターにとっても鮮明で、その分、同じ日本人である宮市亮(横浜F・マリノス)や上田綺世(フェイエノールト)に大きな期待を寄せてくれているのだ。

 2002年8月にはレアル・マドリードとのUEFAスーパーカップに出場し、02-03シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ(CL)にも参戦。今でこそ、久保や冨安健洋(アーセナル)や鎌田大地(ラツィオ)といった面々がCLの大舞台で戦っているが、この時点でCLに挑んだ日本人は彼1人。日本サッカーの地位向上にこれほど貢献した選手はいないと言っても過言ではない。

 99年夏の大ケガ以来、「プレーのイメージが湧かなくなった」と理想と現実のギャップに苦しみ、「自分らしいプレーができない」と不完全燃焼感をたびたび吐露していた小野。それでも負傷の後に2度のW杯や五輪、UEFA主催大会参戦という大仕事を果たしたのだから、もしも彼がケガをしていなかったらどの領域まで上り詰めていたのだろう……とどうしても想像してしまう。フェイエノールトからプレミアリーグのビッグクラブへのステップアップは当然叶っていただろうし、香川真司(セレッソ大阪)より先にマンチェスター・ユナイテッド級の環境で活躍していたはずだ。

「オランダ移籍1年目から一緒だった(ロビン・)ファン・ペルシーなど複数の選手がゴッソリいなくなってしまい、(ベルト・ファン・マルワイク)監督も変わってチームのクオリティーが下がり、気が抜けた部分があったのが大きかった。高いモチベーションの時に移籍できていたらステップアップは可能だったのかな。それができなかったのは個人の力のなさ。それまでの選手だったんだなと思います」と小野は数年前のインタビューで苦笑いしていた。その一方で「レアル・マドリードやバルセロナでやってみたかった」という悔恨の念も口にしていた。それは本当に悔やまれるところ。我々もトップ・オブ・トップに君臨する小野をぜひ見たかった。

 それでも、最初の欧州挑戦からいったん浦和に戻り、ボーフム、ウエスタン・シドニーとさらに2度も海外挑戦に踏み切ったのは、彼のサッカーへの探求心の強さゆえだろう。国内でも4チームでプレー。44歳になる現在まで現役を続けた。99年7月の大ケガを筆頭に数々の負傷を繰り返してきた小野がここまで長くピッチに立ち続けられたのは、凄まじい努力の成果に他ならない。

 2022年末に1つ上の中村俊輔(横浜FC)がユニフォームを脱ぎ、今年に入って本山と高原、南雄太(大宮アルディージャ)も引退を決断した。そんな仲間たちを見つつ、「自分もそろそろいいのかな……」と納得できた部分もあったのではないか。

「自分にはサッカーしかない」と数年前に語気を強めた男が引退を決断するのはそう簡単なことではなかっただろう。ただ、彼とサッカーの関わりがなくなるわけではないし、また違った形で貢献することが小野にはできるはず。まずは12月3日の現役ラストマッチで完全燃焼し、新たな気持ちで第2の人生のスタートを切ってほしいものである。

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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