J最多出場GK南雄太が26年間戦い続けられた訳 キャリアの転機と引退決断の理由「現役をやるだけがすべてじゃない」【インタビュー】
自分の判断と周りの評価のズレを感じ取った第36節徳島戦のベンチ起用
J2大宮アルディージャのGK南雄太は、2023年シーズン限りで現役を引退した。J1で266試合、J2で400試合、Jリーグ通算666試合に出場。1998年に柏レイソルでプロデビューを飾り、ロアッソ熊本、横浜FC、そして大宮と渡り歩き、26年のキャリアに幕を閉じた。(取材・文=石川遼)
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今年9月には44歳を迎えた。GKはフィールドプレーヤーに比べれば息の長いポジションとはいえ、並大抵の努力ではその年齢までプレーすることはできなかったはずだ。昨年5月には右足アキレス腱断裂の大怪我に見舞われたが、そこから懸命のリハビリでピッチに戻ってきた。
「今年の1月にアキレス腱の怪我から復帰しました。最初は思い通りにいかないことの連続でしたし、サッカーをしていて結構ストレスを感じていました。このままじゃ続けていくのは厳しいかなとも思っていたんです。でも、時間の経過とともに自分のコンディションも上がってきましたし、プレーの感覚も戻ってきてる感じがありました。今年の夏にクラブと面談した時にも、現役を続けたいという意向を伝えていました」
まだまだ現役で――。そう思っていたなかで、シーズン途中に転機が訪れる。9月24日のJ2リーグ第36節徳島ヴォルティス戦(1-0)だ。正GKの笠原昂史が体調不良で欠場余儀することになり、それまでベンチ入りしていた南に出番が回ってくるはずだった。しかし、先発に名を連ねたのは南ではなかった。
「徳島戦で笠原選手が欠場することになった時、ずっとベンチに入っていた自分にやっとチャンスがきたと思いました。これは自分にとって最後のチャンスだろうという気持ちでいたなかで、監督から『別の選手でいく』と伝えられました。それは自分の中でとても大きな出来事でした。チームが苦しい状況にあるなか、ここでチームのために働けないのであれば厳しいなと思いました」
怪我からの復帰し、肉体的にはまだやれると感じていた。それなのにピッチに立つことができない現実。自分の判断と周りの評価がズレてきていることを感じ取った瞬間だったという。
決断の時だった。「続けようと思えばあと2、3年はできますよ。でも、やるだけがすべてじゃないですから」。南は、信念を貫き通すと決めていた。
「ピッチ上で自分を表現できなくなったらそれが辞め時だというのは、30代の後半からずっと考えていました。44歳までやって言うのもなんですが(現役に)しがみつこうとは思っていません。その時がきたら自分でしっかり決断しなきゃいけないと思っていましたし、だからこそ周りの評価にはすごく敏感にしていたつもりです。監督やコーチに対する不満はありません。ただ、自分に対してショックや憤りを感じました。ここでチョイスされないんだったら自分に存在意義はないというのが率直な感想でした。そんなふうに思ったのはプロ生活の中で初めてのことで、結局その感情が変わることはなく、引退を決めました」
「あのまま出続けていたら30代前半で終わっていた」転機だったライバルGKの加入
南は1999年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)で準優勝を果たした黄金世代、79年組の1人。全国制覇も経験した静岡学園高を卒業後に加入した柏では1年目から試合に出場してきた。J2に降格した2006年にはキャプテンにも就任した。順風満帆にも思えたキャリアの中で、最大のターニングポイントは2008年シーズンだったという。ポジション争いのライバルとなるGK菅野孝憲(現・北海道コンサドーレ札幌)が加入した年だった。
「2008年にスゲ(菅野)が横浜FCから移籍してきて、2年間一緒にやりました。最初は自分が試合に出ていましたけど、途中からスゲに代わりました。あの頃は監督の方針だとかサッカーのスタイルだとか言い訳して逃げている自分がいて、またすぐにチャンスがくるだろうなって思っていたんです。でも、監督が変わっても選ばれたのはスゲでした」
ポジション争いで遅れを取るのはこれが初めての経験だった。07年シーズンに33試合だったリーグ戦出場は、08年シーズンに10試合に減少。そして、09年シーズンはついに出場なしで終わった。
だが、南は「09年がキャリアの中で最も成長できた」と振り返る。プライドをかなぐり捨て、気持ちを新たにサッカーに向き合うことができたという。
「30歳に差しかかって初めて自分に矢印が向いたんです。自分には何が足りないんだろうか、スゲにあって自分にないものは何なんだろうとすごく考えるようになりました。試合に出れなくなったことでもっと上手くなりたいとか、スゲから盗めるものは盗もうとかそういうマインドに変わっていったんです。09年はプロ生活の中で唯一リーグ戦の出場がなかったんですけど、自分の中で上手くなっている実感もあって、本当に大きな1年でした。もしあのまま柏で試合出続けていたら、僕のキャリアは30代前半ぐらいで終わっていたんじゃないかと思います」
菅野とのポジション争いを経て、2010年に柏との契約満了を迎えた南はJ2の熊本へ移籍。そこで4シーズンを過ごすと、14年にはJ2横浜FCへと活躍の場を移した。年齢を重ねるごとに少しずつ出場機会を減らしていたが、19年シーズンには33試合に出場し、横浜FCのJ1昇格に大きく貢献。40歳を迎えて、J1に再び挑戦する機会にも恵まれた。
酸いも甘いも経験した26年の現役生活だった。「身体能力も高いわけじゃないし、サイズ(身長185センチ)もあるわけじゃないし、これといった取り柄もあまりなかったと思うんです。でも、向上心と危機感。特にキャリアの終盤はそれらが自分を支えていました」。サッカーを辞めるその日まで成長し続けたいという思いを持ち続けたことが、この色濃く長いキャリアにつながった。
「プレミアやスペインで活躍できる選手が…」未来のGKに期待すること
南がプロ入りした当時と比べるとGKに求められる役割も大きく変わった。日本では人気のないポジションとも言われることも多かったが、時代の変化とともにそうした悪しき風潮も変化してきた。南はそのことを肌で感じているという。
「僕がプロに入った頃と比べると、GKは足元の技術はもちろん、広い守備範囲も求められるようになってきています。僕はスペシャルな部分がなかったかもしれないけど、いろいろなことが器用にできたのが良かったのかなと思います。それに僕らの少年時代、GKといえば太っている子や背が高くて足の遅い子がやるみたいなイメージがありました。きっとそれはGKの重要性が理解されていなかったからだと思うんです。でも、今の少年サッカー見てると、どのチームもいいキーパーが本当に多いなと感じるんです。それってやっぱりキーパーに対する見方が変わってきた証拠で、Jリーグが30年経って格段に進歩した部分だと思います。僕は30年前だったらプロになれなかったんじゃないかと思います」
プロ入りしてくる若いGKたちの基礎技術は年々高くなっていると南は話す。そして、次は欧州のトップレベルで活躍できる選手が育ってほしいと次代を担うGKたちに大きな期待を寄せていた。
「最近はベルギーなどでプレーする日本人GKも増えましたけど、やっぱりプレミアリーグとかスペインリーグのようなチームでレギュラーを張れるような選手が出てきたら、さらにGKを見る目も変わるのかなと思います。そういう選手が1人でも出てくるとGKの人気も自然と高まってくるでしょうし、可能性を持った選手はたくさんいると思います。そういう先駆者となるような選手が出てきてくれたら嬉しいですね」
[プロフィール]
南雄太(みなみ・ゆうた)/1979年9月30日生まれ、神奈川県出身。静岡学園高―柏―熊本―横浜FC―大宮。J1通算266試合、J2通算400試合。安定感のあるセービングと的確なコーチングで守備を引き締めた“黄金世代”の守護神。Jリーグ通算666試合出場はGKのリーグ最多出場記録を誇る。プロ26年、今季限りでの現役引退を表明した。
(石川 遼 / Ryo Ishikawa)