高校サッカー名門・帝京、遠き復活への道のり 「勝ちにこだわるサッカー」捨てた“カナリア軍団”の今【コラム】
高校選手権東京都予選・準決勝で敗退、14年ぶりの選手権出場叶わず
帝京の「復活」は、またお預けとなった。全国高校選手権東京都予選Aブロックの準決勝が11月4日、味の素フィールド西が丘で行われ、帝京は國学院久我山と対戦。1-1からのPK戦スコア1-4で敗れ、14年ぶりの選手権出場は果たせなかった。かつて高校サッカー界を席巻した名門が、復活まであと一歩と迫りながら苦しんでいる。
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「内容的には帝京の試合だった」と日比威監督が振り返ったように、主導権は握っていた。中盤でパスをつなぎ、ドリブル突破を織り交ぜて久我山ゴールに迫る。ボールを奪われれば高い位置からプレスをかけて奪回。再びボールを動かして攻め込んだ。
もっとも、相手GKを中心とした粘り強い守備にゴールは生まれず。逆にカウンターからピンチを招いた。後半31分に失点すると、同35分にFW森田晃(3年)が同点にしたが、得点はそれだけ。延長戦でもゴールは生まれず、PK戦では2人が止められて敗退が決まった。日比監督が「最近では一番完成度が高い」というチームでも、選手権は遠かった。
1970年代から90年代まで、高校サッカーは「帝京時代」だった。選手権では74年度に初優勝すると、戦後最多タイの6回優勝。3回の高校総体優勝を合わせ、カナリア色のユニホームの胸には9個の星が輝く。かつて、古沼貞雄監督率いる帝京は高校サッカーの代名詞で、全国の中学生の憧れでもあった。
しかし、Jクラブの躍進や地方チームの台頭などで選手は集まらなくなり、近年は苦戦が続いた。2000年代に入ってからは全国大会も遠くなった。再建を託されて15年に就任したのが日比監督。四日市中央工との同時優勝で選手権最後の星を手にした91年度の主将は、これまでのスタイルから脱却し、新時代の帝京サッカー作りを目指した。
パワーとスピードを生かした堅守速攻を捨て、高いテクニックでボールを保持しパスとドリブルで相手を崩す攻撃的なスタイルへ変貌した。「新しい帝京のスタイルを作らなければ中学生も来てくれない。昔強かったことなど、中学生は知らないんですから」と日比監督は話した。
昨年高校総体で2位も「選手権に出ないと復活ではない」
改革は進み、東京都リーグ所属のチームは18年に関東プリンスリーグに昇格。昨年は1部2位でプレミアリーグ参入まであと1勝と迫り、今季も鹿島アントラーズユース、浦和レッズユース、東京ヴェルディユースに続いて4位に付ける。東京の高校で関東1部にいるのは帝京だけ。リーグ戦では安定した力を見せている。
高校総体でも一昨年に全国舞台に復帰すると、昨年は青森山田、岡山学芸館、昌平など強豪を破って決勝進出。前橋育英に敗れて2位に終わったが、10個目の星に手が届くところまで来ていた。復活の狼煙は上がっていた。あとは選手権だった。
「やっぱり多くの人が見ているのは選手権だし、選手権に出ないと復活ではない」と日比監督。実力は誰もが認めている。久我山の李済華監督も「帝京は強いです。押し込まれるのは分かっていたし、今日はカウンター一発になると思っていた」。言葉どおりの試合展開で、勝ったのは昨年の準決勝同様に久我山だった。
日比監督は「もう少しアグレッシブに攻めていればと思うけれど、それも含めて責任は自分にある。選手たちは培ってきたスタイルでよく戦った」と話した。かつての「勝ちだけにこだわるサッカー」は捨てている。負けていてもしっかりとポゼッションし、パスをつないで崩す。新生帝京の魅力でもあるが、勝負だけを考えれば弱点にもなり得る。
帝京は今年から系列の帝京中との中高一貫の選手育成をスタートさせた。日比監督らスタッフが6年計画で選手指導にあたっている。結果だけを重視せず、将来サッカー界やほかの分野で活躍できる人材育成を目指すという。
日比監督が就任9年で築いてきた各クラブとのパイプもある。「(かつての)帝京は知らないけれど、やっているサッカーが好き」という入部希望者はこれからも増えるはずだ。かつての中学生は選手権の結果で進学先を決めたが、今は所属リーグを重視するという。「下級生にも優秀な選手は多い」という帝京が再び選手権の舞台に立つのは、そう遠くはないはずだ。
スタイルを一新させながらも、唯一変えなかったカナリア色のユニホーム。「今の選手は知らないけれど、伝統は大切にしたい」と日比監督は言う。「やっぱり、選手権は難しい。勝ちにこだわるサッカーはしたくないけれど、勝たないと」。胸の星を10個にするために、試行錯誤を繰り返しながら帝京の挑戦は続く。
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。