セレソンを率いた男が国民に突き付けられた難題 “慎重派”指揮官が導いた現実路線の“答”に込められた思い【コラム】

カルロス・アルベルト・パレイラとフィジカルコーチのモラシー・サンターナ(スイス合宿時)【写真:徳原隆元】
カルロス・アルベルト・パレイラとフィジカルコーチのモラシー・サンターナ(スイス合宿時)【写真:徳原隆元】

【カメラマンの目】2度のW杯で指揮を執ったカルロス・アルベルト・パレイラ

 次々と絶え間なく誕生するハイレベルな選手たちが織り成す華やかなプレーに、見る者たちは熱狂へと誘われ、美しきサッカーの可能性をブラジルという集団に求める。そんなセレソン(ブラジル代表の愛称)は当然、国民からの期待も大きい。ワールドカップ(W杯)では常に優勝へのプレッシャーを背負って戦い、人気チームが故に取り巻く環境も複雑で思わぬ困難にも直面する。こうした国民からの期待や難題にセレソンの指揮官たちはどうやって向き合ったのか。W杯優勝監督にもなったカルロス・アルベルト・パレイラからセレソンを指揮する難しさを紐解いてみる。

【PR】ABEMA de DAZN、明治安田J1リーグの試合を毎節2試合無料生中継!

「選手たちは戦場に向かう兵士のようだった」

 1994年アメリカW杯で優勝を果たしたブラジルで、監督の補佐を務めたテクニカル・コーディネーターのマリオ・ザガロは当時のことをインタビューでそう回想した。

 70年メキシコ大会以来、優勝から遠ざかっていたブラジルにとってアメリカ大会は、いつも以上に国民から世界チャンピオンの称号を手に入れることを渇望されていた。そのプレッシャーの激しさは、マリオ・ザガロがまさに現場で感じた思いが端的に示していた。

 そして、指揮官カルロス・アルベルト・パレイラは優勝するために現実を直視したスタイルで大会に臨み、見事にそのプレッシャーに打ち勝ち結果を出すことになる。現実を直視することから導き出された答は、攻撃的で人々を魅了するブラジルらしさをピッチで表現するよりも、まずは負けないチームを作り上げることだった。

 その象徴が中盤を構成する守備的MFに2人を配置するスタイルだった。ボランチを2人置くスタイルは現在となっては一般的だが、サッカー大国らしく華麗で攻撃的なプレーで勝つことを望んでいた当時のブラジルでは、中盤で主に守備を行う選手は1人でいいという考えが主流だった。

 だが、カルロス・アルベルト・パレイラはドゥンガとマウロ・シルバの2人をレギュラーとして起用する。この考えは来るべき未来のサッカーを予見した指揮官の先見性というより、いまこの場の試合で負けたくないという意志の表れだったと言える。

 現実路線を貫くパレイラの起用は、ボランチだけに留まらずほかの中盤選手にも見て取れた。このチームでペレ、ロベルト・リベリーノ、ジーコがつけた栄光のブラジルサッカーを象徴するエースナンバー10番を受け継いだのはライー。しかし、その受け継いだ背番号からの期待とは裏腹に、彼はサンパウロFCからパリ・サンジェルマンに移籍すると不調に陥り、そのまま大会を迎えてしまう。

 グループリーグの序盤では先発メンバーに名を連ねたライーだったが、徐々にその存在感は薄れレギュラーはマジーニョに取って代わられる。このマジーニョは攻撃的MFというより、堅実なプレーが持ち味のボランチに近いパワー選手で、ブラジルをより堅実なチームへと向かわせることになる。

 ただ、こうした安定感を第一とした選手起用は、ダブルボランチで言うと2人を比較した場合、このポジションにおける能力としてはマウロ・シルバの方が一歩リードしていたが、勝利への強い思いをプレーで体現できるドゥンガも替えの利かない選手であった。そうしたさまざまな能力を考慮すると、2人は甲乙つけがたい選手であり、どちらかを起用するという判断は難しかったことも事実であった。

 さらにテクニックを駆使し、攻撃をリードする選手が実際にいなかったことも、中盤の構成においてダブルボランチに行き着き、堅実なメンバーに固まっていく理由でもあった。

ブラジル代表時のロナウド【写真:徳原隆元】
ブラジル代表時のロナウド【写真:徳原隆元】

優勝を果たしたアメリカW杯から06年ドイツW杯へ 名を連ねたのは華やかなメンバー

 そうした現実路線に舵を切ったセレソンのなかにあって、ブラジルらしさを存分に発揮したのがFWのロマーリオだった。ずば抜けた得点感覚を持った世界屈指の天才ストライカーは、コンビを組んだベベットのサポートを受けて、中盤以降の安定感ある構成メンバーとは対照的に華麗に、そして老獪にプレーし攻撃を圧倒的に牽引。ロマーリオが24年ぶりの優勝へと導いたと言っても過言ではないほどの活躍を見せたのだった。

 アメリカ大会優勝後、監督はテクニカル・コーディネーターのマリオ・ザガロにバトンタッチされる。98年フラン大会は準優勝、そして2002年ルイス・フェリペ・スコラリに率いられたブラジルは日韓大会で5度目の優勝を果たす。

 そして、06年ドイツ大会に向けた指揮官は、当時のCBF(ブラジルサッカー連盟)会長リカルド・テイシェイラの強い要望を受けて、再びカルロス・アルベルト・パレイラが就任することになる。

 補佐役のテクニカル・コーディネーターにも、94年のチームでその職を務めたマリオ・ザガロが就任。フィジカルコーチも12年前に歓喜を味わったモラシー・サンターナが担い、6度目のW杯優勝を目指すことになった。

 06年のチームは、94年と比較して主要スタッフは同じ顔触れとなったが、対照的に選手はサッカーへの好奇心を刺激される、これぞブラジルというメンバーが名を連ねることになる。82年スペイン大会でのジーコ、ソクラテス、パウロ・ロベルト・ファルカン、トニーニョ・セレーゾの黄金の4人にも匹敵する、クアトロ・マジコ(マジックフォー)と称されたロナウド、アドリアーノ、ロナウジーニョ、カカのクラッキ(名手)が強力な攻撃陣を形成する。慎重派の指揮官カルロス・アルベルト・パレイラも、さすがにこの手駒を存分に使うことになる。

 しかし、蓋を開けてみればブラジルは期待を大きく裏切るベスト8に終わる。その敗因は何だったのか。ブラジルは本大会を控えて、ドイツの隣国であるスイスのウェッギスで合宿を行った。この合宿は代理店主導によるもので観戦を有料としたファンが多く見守るなかで練習をこなし、ルツェルンとジュネーブで大々的に強化試合を行ったのだった。

 近年で言えば、選手をトレーニングに集中させてチーム構築を行う作業よりも、利益を優先したヨーロッパの強豪クラブがシーズン前にアジアなどで行うツアーのようなものだ。

 このスイス合宿で、ペレの時代に活躍した伝説のFWトスタンが報道陣として来ていたので、こういった状況はチームにとってマイナスとはならないのかと質問をしてみると「ブラジルは常に注目を集めるチームだから問題はない」という答だった。

 本大会で優勝を果たせなかった結果が出たあとから、その過程を批判しても説得力に欠けるだろう。優勝していればこの“お祭り”となったスイスツアーなど歯牙にもかけないことになっていただろうから。

ブラジル代表時のロナウジーニョ【写真:徳原隆元】
ブラジル代表時のロナウジーニョ【写真:徳原隆元】

準備は万全でなかった セレソンを率いる男が向き合う問題は多方面

 しかし、それでも実際に現地で取材をしていた身としては、チームが集中するうえで有料の観客を入れ、多くのファンで埋まったスタジアムで強化試合を行ったこの準備方法をプラスと考えるのは難しかった。

 さらに4年に1度の大会であるW杯では、チームを構成する選手たちの技術レベルが最高の時期と重なるかは運にも左右される。クアトロ・マジコを有するブラジルも厳密に言えばチームは前年に完成し、すでに下降線にあった感もある。特にFWのロナウドとアドリアーノはその体型からもコンディションが万全であったとは思えなかった。

 06年のメンバーは名前だけを見れば強力な選手たちが揃っていたが、実際のチーム力は下降線にあった。さらに、ブラジルのようなブランド力が高いチームは利益を生むことになり、組織に関係する人々の思惑が交差し、準備に集中できない場合もある。現場の指揮官カルロス・アルベルト・パレイラの観点からすれば、本大会に向けての準備は、必ずしも万全の環境で行われたとは言えなかったと思う。

 目指すスタイルやチームが置かれた状況と、セレソンの指揮官はさまざまな問題に向き合うことになるのだ。セレソンを指揮してW杯優勝という最高の結果を出し、また国民からスタイルに対して疑問を持たれ、チーム構築の準備への難しさも経験したのがカルロス・アルベルト・パレイラだった。

(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)



page 1/1

徳原隆元

とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング