「クビになりながら再契約」激動のJリーグ生活19年間 41歳で引退「やり切ったという思いなんてない」【インタビュー】

2017年に41歳で現役引退を決断した盛田剛平【写真:Getty Images】
2017年に41歳で現役引退を決断した盛田剛平【写真:Getty Images】

【元プロサッカー選手の転身録】盛田剛平(浦和、大宮、広島、甲府など)第1回:仲間に恵まれた現役時代

 世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。

 今回の「転身録」は、浦和レッズを皮切りに複数のクラブでプレーし、2017年に41歳で現役引退を決断した盛田剛平だ。プロ生活19年間、7つのJリーグクラブに在籍した盛田は、引退後に浦和のハートフルクラブのコーチとして活躍する傍ら、23年3月に念願だったラーメン店を開業するなどセカンドキャリアを歩んでいる。第1回では、紆余曲折の現役時代を紐解いていく。(取材・文=河野正)

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 駒沢大から浦和レッズに加入した大型FW盛田剛平は、1999年の加入会見で「利き足はヘディングです」という軽妙洒脱な話術で笑わせ、プロの一歩を踏み出した。ここから2017シーズンまでの19年間、7つのJリーグクラブに在籍する息の長い選手だったが、長い分だけ紆余曲折を重ねた。

 大学屈指のストライカーには、覚えているだけでも浦和、名古屋グランパス、鹿島アントラーズなどJリーグ9クラブから獲得の申し出があった。サポーターと小野伸二の存在が決め手となって浦和を選んだが、不遇の2年間を過ごすことになる。

 原博実監督は盛田の加入により、前年の2トップから3トップに変更し、189センチの長身FWをクロスとくさびのターゲットにする戦法を取った。ガンバ大阪との開幕戦には3トップの中央で先発したが、シュート1本で後半15分に交代すると、次節から8戦続けてベンチスタート。第10節から再び先発したが、第1ステージは無得点に終わり、出場5試合にとどまった第2ステージでもゴールを奪えなかった。

「もっと早くゴール前に入らなきゃ駄目だ」と原が注文を付ければ、本人も「いつもそこを言われる」と自省。6月19日に原が解任されるまで、原がクロスを上げ、盛田が頭で合わせる居残り練習を毎日続けた。

 原も空中戦に強くヘディングでの得点が多かっただけに、現役時代の自分と盛田をだぶらせたのだ。

 チームがJ2に陥落した2000年も44試合中、途中出場が4試合だけ。公式戦初ゴールは2得点した天皇杯1回戦で、2回戦では4点も奪ったが、Jクラブからの得点は99年2月のジュビロ磐田とのプレシーズンマッチで挙げた同点弾しかない。

 盛田は厳しい顔付きで、「加入当初は合宿でもやれそうな手応えがあったんだけど、結局は力がなかったんですね。(期待が大きい分)変な力みもあったと思う。原さんにはあれだけやってもらったのに申し訳ない」と24年前を思い返した。

「精神的にやられている」時期から「プレーできる喜びに浸りました」の心境へ

 01年1月にセレッソ大阪へ、同年8月には川崎フロンターレへ期限付き移籍したが定位置を確保できず、浦和との契約も満了になった。

 C大阪に移る際、初めて代理人を付けたが「浦和が終わりになって払える金もないし、それから引退するまで、なんでも自力でやりましたよ」と苦笑。01年12月に参加したアルビレックス新潟の選考会も自ら探してきたが、初日に怪我をして断念。年末には大宮アルディージャの練習に参加し、ヘッドコーチが駒沢大の先輩、佐久間悟だったこともあり首尾良く加入が決まった。

 大宮では主力として1年目がリーグ戦32試合、2年目も28試合に出場したが、3年目の夏に転機が訪れる。練習試合で盛田を視察したサンフレッチェ広島の関係者から「うちでやってみないか」と誘われたのだ。7月に期限付き移籍すると、第2ステージ開幕戦からFWで先発。第3節の柏レイソル戦では、後半34分に“本当の利き足”である左足で同点ゴールを蹴り込んだ。6年目にして待ちに待ったJ1初得点だった。

 盛田にとっては広島での晩年と次に在籍するヴァンフォーレ甲府時代が、サッカーの楽しさを心底味わえた短い期間でもあった。

 興味深いことを言った。「移籍するたびに今度こそ成功するぞ、ここでエースになってやろう、って野望はあったんだろうけど、どこまで真剣にサッカーと向き合っていたのかは分からないんですよ」。その答えは広島での最終シーズン、DF登録に変更して6年目の11年に出た。

 完全移籍した05年は佐藤寿人が18点、ガウボンが9点と新加入組のFWが活躍し、盛田の出番は3試合・34分のみ。契約更改の席上、強化担当者から来季のポジション変更を打診されたのだが、実は本人もFWで生き残るのは難しいと悟り、新境地を模索していた。双方の見解が合致し、翌日からDFの練習を始める。

 06年はCBとして18試合に先発したが、まだやりがいを感じてはいなかった。「ボールが来たら上手なカズ(森﨑和幸)や(服部)公太、戸田(和幸)にすぐ渡しちゃったし、とにかく早く試合が終わってほしかった」と本気度は足りず、試合前はまぶたがけいれんして「精神的にやられていると思った」と真顔で話す。

 10年3月4日の練習中に右足甲を骨折。翌日手術したが回復せず、8月4日の再手術で公式戦出場はなし。シーズンを棒に振った。

「故障中にスタンドで観戦していたら、大勢の観客の中でやれるのは凄いと感じ、こういう環境で頑張りたいと思い直した。(ミハイロ・)ペトロビッチ監督はDFにも攻撃参加を要求したので、得点に絡む機会も多くなってアシストが3度。サッカーが楽しくて楽しくて、プレーできる喜びに浸りました」

 13年目でプロフットボーラーとしての自負心がようやく宿った。と同時に広島との契約も満了。トライアウト(加入テスト)に参加し、声を掛けてくれた唯一のJリーグクラブが甲府だった。

契約打ち切り後に再契約で活躍「もっと続けたかった。悔いなく引退する人はいないでしょ」

 甲府1年目はDFで25試合(先発24)に出場し、優勝と3度目のJ1昇格に貢献。24戦無敗のJ2記録も作った。だが翌13年は土屋征夫、青山直晃の加入で10試合しか出番がなく、契約打ち切りとなった。また瀬戸際に立たされたが、横浜FCからオファーが届いた。

 横浜市で住宅物件を探していると、城福浩監督からFWで甲府との再契約を提案される。「得点は期待しない。お前は周りを使うのが上手いから、そこを頑張ってくれればいい」という言葉に肩の荷が降り、腹を固めた。

 ジウシーニョが怪我で第2節に先発できなくなり、盛田にお鉢が回ってきた。シュート1本ながらフル出場。手応えを掴んだという。

 半数の17試合にFWで先発し、クリスティアーノと並ぶチーム最多、自己最多の5点をマーク。現在、社長の佐久間がGMだった当時「FWで結果を出し、盛田も納得したことでしょう」と嬉しそうに話した。

 5年間在籍した甲府から、トライアウトを経てザスパクサツ群馬で1年プレーし、17年をもって引退。「やり切ったという思いなんてない。もっと続けたかった。悔いなく引退する人はいないでしょ」と述べると、「でもいつキャリアが終わってもおかしくなかったのに、本当にクビになりながら再契約。棚ぼたの先発や予想外の5ゴールなどは、長くやっていたからこそですよ。仲間にも恵まれた」と言葉をつないだ。

 14年の5点のうち1点が左足で、4点が頭で奪った。やっぱりこの人の“利き足”はヘディングだった。(文中敬称略)

※第2回に続く

[プロフィール]
盛田剛平(もりた・こうへい)/1976年7月13日生まれ、愛知県出身。桐蔭学園高―駒澤大―浦和―C大阪―川崎―大宮―広島―甲府―群馬。J1リーグ通算175試合8得点、J2リーグ通算125試合8得点。1999年に浦和でプロデビュー。その後は複数のクラブでプレーし、2017年シーズン後に41歳で現役を引退。19年間のプロ生活にピリオドを打ち、2018年から浦和のハートフルクラブのコーチとして活躍する傍ら、23年3月に念願だったラーメン店を開業した。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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