「まだできる」31歳でJリーガー引退決意 「サッカーが面白くなってきた」のにスパイクを脱いだ理由

長崎在籍時の磯村亮太氏【写真:Getty Images】
長崎在籍時の磯村亮太氏【写真:Getty Images】

【元プロサッカー選手の転身録】磯村亮太(名古屋、新潟、長崎、栃木)第2回:31歳でプロサッカー選手引退の経緯

 世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。

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 今回の「転身録」は名古屋グランパスのアカデミーからトップ昇格、その後アルビレックス新潟、V・ファーレン長崎、栃木SCを経て2022年限りで現役を引退し、株式会社マイナビでアスリートたちの就労支援に携わる磯村亮太。第2回は31歳でプロサッカー選手を引退するという大きな決断を下した経緯について。スパイクを脱ぐことには未練はなかったものの、そこに至るまでにはもちろん逡巡もあった。

プロサッカー選手という職業の特殊性、その立場にいたからこそ経験できたもの、サッカーをプロフェッショナルとしてプレーする喜び、そして苦しみ。14年間の経験を振り返って初めて気づく磯村の「サッカーを楽しめている時」の条件は、今セカンドキャリアを歩み始めた喜びにも共通する部分もあったという。(取材・文=今井雄一朗)

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 マイナビでの第2の人生をスタートさせた磯村は、新鮮な環境と新たな目標を得たことで「純粋に楽しくて、生きてるなって感じられています」と朗らかに笑う。仕事の話を本当に楽しそうに語る彼の姿は、生きていくうえで目標や指針といったものがいかに毎日を充実させ、より良いものにするかが伝わってくるようだった。

 実のところ、Jリーグで14シーズンを戦った磯村が「まだできる」と言われながらも現役を退く決意をした理由は、この“目標”というものを見失ったからにほかならない。結果的に4クラブを渡り歩くことになったそのキャリアの中には、そうしたやりがいを感じられていた時期とそうでなかった時期の両方があり、選手晩年にはその間で辞めるか、続けるかで揺れ動きながらのプロ生活が続いていたと、磯村は正直に話す。

「引退前の数年は、自分がどこにモチベーションを持ってサッカーをやればいいのかが分からなくなってしまったんです。それまでは目標があってやっていたところ、それを見つけられなくなった。それが引退の理由の一番かなと自分では思っています。ここ数年のほうがむしろサッカー自体が楽しくなっていたし、こういう考え方もあるんだとか、すごく面白くなってきていたんですよ。

ただ、本当に自分に目標がなかった。例えばグランパスにいた時は、クラブのために、グランパスのために、みたいに考えてやりがいもあった。名古屋を出てからはJ1でもう一度やりたいとか、チームのJ1昇格とか、そうやって上を見てサッカーをやっていたけど、いつからか下を見ながらやらなければいけなくなった時に、『これはサッカーをやる意味があるのかな』って思ったというのは正直な気持ちです」

マイナビでの第2の人生をスタートさせた磯村亮太氏【写真:本人提供】
マイナビでの第2の人生をスタートさせた磯村亮太氏【写真:本人提供】

根幹を成した“生まれ育った”名古屋時代の8年半

 磯村自身、何が何でも現役を続けたいというタイプではなく、半端な気持ちでサッカーに向き合うのも良くないと考えたこともあったという。若手の頃から負傷の回数も少なくなく、ここ2年間はアキレス腱の不調にも悩まされていた。それも決断のトリガーの1つではあったというが、怪我が直接の理由ではないのは明白だ。

「サッカーをやっていれば怪我はしますから」。名古屋時代の最終シーズン、2017年には見るからに痛々しいテーピングを膝に分厚く巻き、それでもチームの浮上のために身を削ってプレーしていた。つまりはそういうことだ。彼にとってのサッカーを続ける理由、プロの舞台で闘い続けられる理由は、やりがいや身を捧げるだけの価値をそこに見出せるかどうか。だが、その点において磯村は、少しばかりの不運な男でもあった。

「風間(八宏)さんもそうだし、ボスコ(・ジュロブスキー)さんとかもそうでしたけど、僕が“サッカーが面白い”ってなっている期間ってなぜか短かったんですよね(苦笑)。特に自分が面白いって思う監督と一緒にやれた時間ってすごく短くて。風間さんも半年だし、ボスコさんもそのくらい。長崎に行った時も、最初は高木琢也さんが監督で、やることは難しかったけど、理解するとすごく楽しくて、だけど半年で終わってしまった。

新潟の時も呂比須(ワグナー)さんが監督だった時、本当にこの人のために頑張りたいなって、僕には思えたんです。でも、それも半年で終わった。そういう部分は自分のキャリアですごく残念だったなって思うところです。自分にはない発想を植え付けてくれる監督とやるのは本当に新鮮で、そういう人とサッカーをやるのがすごく好きなんですよね」

 所属した4クラブすべてに良い思い出と苦しい戦いの記憶があり、今となってはすべてが彼のセカンドキャリアを支える得難い経験だ。それでもやはり磯村の根幹となっているのは地元であり、“生まれ育った”クラブである名古屋グランパスでの8年半にある。

 特にクラブ史上初のJ2降格を味わった2016年はアカデミー出身という立場も相まって、クラブへの愛がほとばしったシーズンでもあった。試合中の接触プレーで指を負傷し、それからしばらく曲がったままになっても、「指なんて伸びなくてもいい、勝ちたい」とうめいた彼の表情は今でも忘れられない。そのことを告げるとなおさらに、磯村は現役を退いたことを納得するように頷いた。

プロキャリアを続ける意味合い見出せず「踏ん切り」

「あの年は本当に勝てなかったですからね……。本当にこの試合でどうなってもいい、みたいな気持ちでやっていたんですが、ただそういうものが段々なくなっていってしまったのかなって、自分でも感じていたのかもしれない。引退の直前くらいは特にそうですね。熱くなれなくなっていってしまったのかな。そういうものは、自分の中にあるのかもしれないです。

今思えば2016年は本当に楽しかったんですよ。楽しかったっていう言い方は成績を考えればおかしいかもしれないけど、すごく必死になってやっていたから、楽しかったなって思えるんです。やっている時は本当に辛かったけど、それでも充実していた。誤解を呼ぶ言い方にはなるかもしれないし、当時は楽しいとか言える余裕はなかったけれど、今振り返ると、やっぱり充実はしていたんだと思うんです」

 2006年、ドイツでのワールドカップを最後に中田英寿が突然の引退を決めた。当時高校1年生だった磯村は、「ああいう辞め方っていいな」と思ったという。その後、プロサッカー選手となった自身に“引退”の2文字がよぎった時、「自分はあんなキャリアの選手じゃないし、細々とやってきて、まだ続けられるのにスパッと辞めるのは違うのかな」と現役でいることに一旦は気持ちを振り絞った。

 ただ、最後は自分のなかにプロキャリアを続ける意味合いを見出せなくなったから、決断した。「やっぱりそんな気持ちでサッカーを続けていても違う」。

 踏ん切りをつければ視界は一気に広がった。未練や後悔が全くないと言えば嘘にはなるが、それにも優るやりがいや目標は見つかっている。磯村は現役当時と同様に、誰かのために、“チーム”のために、その身を捧げて生きていく。

(文中敬称略)

※最終回に続く

[プロフィール]
磯村亮太(いそむら・りょうた)/1991年3月16日生まれ、愛知県出身。Jリーグ通算189試合8得点。名古屋グランパスU-15、U-18を経て2009年にトップ昇格。8年半の在籍期間中には、J1リーグ制覇(10年)や日本代表への初招集(12年)も経験した。17年以降はアルビレックス新潟、V・ファーレン長崎、栃木SCと渡り歩き、昨シーズン限りで現役引退。現在は(株)マイナビでアスリートたちの就労支援に携わる。

(今井雄一朗 / Yuichiro Imai)



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今井雄一朗

いまい・ゆういちろう/1979年生まれ。雑誌社勤務ののち、2015年よりフリーランスに。Jリーグの名古屋グランパスや愛知を中心とした東海地方のサッカー取材をライフワークとする。現在はタグマ!にて『赤鯱新報』(名古屋グランパス応援メディア)を運営し、”現場発”の情報を元にしたコンテンツを届けている。

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