玉田圭司、グランパス時代にぶち当たった壁 W杯戦士がベンチで90分…天才肌のアタッカーはいかにして這い上がったか

「お前がJリーグでナンバーワン」 英雄ピクシーの言葉が覚醒を促す

 幼少期からその活躍を目にし、憧れてきた世界のスター選手にかけられた言葉は「お前がJリーグでナンバーワンの選手だ」。もともとが感覚派で、良くも悪くも天才肌のところがあった玉田は、この一言で覚醒した。

 ストイコビッチ体制1年目は31試合に出場し4得点、2年目の2009年は出場試合数こそ27試合に落としたが、持ち前の攻撃力は8得点と復調。そして指揮官が「リーグ優勝」を明言した10年、玉田はそれまでのキャリアハイとなる13得点を挙げるだけでなく、優勝を決めた湘南ベルマーレ戦で1-0の決勝ゴールを珍しくヘディングで叩き込んでいる。

 翌11年にはキャリア最多得点を更新する14得点を決め、首位柏レイソルを追う最終節では鬼門と呼ばれた新潟で美しい決勝フリーキックを流し込んだ。玉田のキャリアは、ここで一度極まったと言えるだろう。この頃の背番号11には、間違いなく試合を左右する個の力があった。

 玉田の復活に重要だったのはストイコビッチというカリスマのおかげでもあるが、進化を促したのはチームメイトの我の強さが要因の1つに挙げられる。玉田自身が相当に我の強いプレーヤーではあるが、当時の名古屋には田中マルクス闘莉王を筆頭に“濃すぎる”キャラクターが勢揃いしていた。

 2010年に30歳を迎えた玉田はその仲間たちを見て、「どうすればこの選手たちをもっと生かせるか」を考えるようになっていったという。柏時代はドリブラー、シューターというイメージの強かったが、名古屋では戦術眼やゲームメイクのセンスなど、より広範囲にサッカーを司る能力が高まっていった。プレシーズンに大学生などと練習試合をするとその影響力の大きさはよりはっきりと分かるところがあり、まるで大人と子どもの対戦にも見えたものである。

 その後、玉田は2014年に名古屋を一度離れ、古巣がJ2に降格した17年に復帰している。驚いたのは、前回所属時よりもさらに“MF化”が進んでおり、18年にはロシアW杯で見たクロアチア代表MFモドリッチの姿に感銘を受け、38歳にしてチームに対する献身性を表現するまでに進化したことだ。

 自分がゴールを奪うだけでなく、そのアシスト、その前のチャンスメイク、ひいてはビルドアップや守備のことまで網羅するようになった玉田は、引退後はその視点をもって指導者への興味を口にする。

 選手として過ごした23年間にサッカーの見方や感じ方を拡張し続けてきた男だけに、どのような選手を育て、どのようなサッカーを表現するのかは楽しみなところ。自身が指導者との出会いに左右された過去を持つからこそ、玉田圭司の今後に興味が湧いて仕方ない。(文中敬称略)

(今井雄一朗 / Yuichiro Imai)



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今井雄一朗

いまい・ゆういちろう/1979年生まれ。雑誌社勤務ののち、2015年よりフリーランスに。Jリーグの名古屋グランパスや愛知を中心とした東海地方のサッカー取材をライフワークとする。現在はタグマ!にて『赤鯱新報』(名古屋グランパス応援メディア)を運営し、”現場発”の情報を元にしたコンテンツを届けている。

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