玉田圭司、グランパス時代にぶち当たった壁 W杯戦士がベンチで90分…天才肌のアタッカーはいかにして這い上がったか

2021年シーズン限りで23年間のプロキャリアにピリオドを打った玉田圭司【写真:Getty Images】
2021年シーズン限りで23年間のプロキャリアにピリオドを打った玉田圭司【写真:Getty Images】

【J番記者コラム】代表入りのために名古屋移籍も、オランダ人監督との相性はいまひとつ

 2021年シーズン限りで23年間のプロキャリアにピリオドを打った玉田圭司のサッカー人生は、その華やかなプレースタイルとは裏腹に苦労も多かった。柏レイソル、名古屋グランパス、セレッソ大阪、そしてV・ファーレン長崎。4つのクラブを渡り歩くなかで、難しさを感じたことは1度や2度では利かない。例えば、2度にわたって所属した名古屋では、1度目の移籍後早々に思わぬ壁にぶち当たることがあった。

 玉田と言えば、“ジーコジャパン”の一員として出場した2006年のドイツ・ワールドカップ(W杯)で、あのブラジル代表を相手に鮮烈なゴールを決めたことが印象深い。だが、日本代表入りのために移籍を決断した名古屋ではリーグ戦26試合6得点にとどまり、翌07年には14試合5得点にまで成績が落ち込んでいる。

 当時の監督はオランダ人のセフ・フェルフォーセンで、彼は育成手腕に定評のある指揮官だった。阿部翔平や小川佳純といったのちの黄金期を支える若手を見出し、2008年からのドラガン・ストイコビッチ体制の礎を築いたのは間違いなくフェルフォーセンの功績だったが、一方で玉田との相性はいまひとつだった。

 それもそのはず、フェルフォーセン監督がFWに求めていたのはDFライン裏へのランニングやクロスに対してニアに飛び込む動きであり、あるいは2006年途中に加入したフローデ・ヨンセンのような“ディープストライカー”が前線には求められていたのである。

 日本代表としてW杯の舞台に立った選手が、所属クラブでは時にベンチで90分間を終えることも珍しくなくなり、指揮官からはその評価に対して厳しい言葉もかけられたという。玉田は当時を振り返る時、「自分も少し天狗になっていたところがあったかもしれない」と言うが、自らが信じるプレースタイルを捨ててまで出場機会にしがみつこうとはしなかった。

 選手がよく使う冗談に「一番良い監督は自分を使ってくれる監督」というものがあるが、若い玉田の自負心はそこに迎合することを許さなかった。結果、周囲や指揮官には反発として見られてしまったところがあったのかもしれない。

 しかし2008年、事態は大きく好転する。クラブOBでレジェンドでもあるストイコビッチを監督として迎え入れ、辣腕として知られた久米一正GM(ゼネラルマネジャー/当時)も同時に“補強”。3年後の黄金期の礎となる体制が始まったことで、燻っていた玉田の才能が一気に開花する。

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今井雄一朗

いまい・ゆういちろう/1979年生まれ。雑誌社勤務ののち、2015年よりフリーランスに。Jリーグの名古屋グランパスや愛知を中心とした東海地方のサッカー取材をライフワークとする。現在はタグマ!にて『赤鯱新報』(名古屋グランパス応援メディア)を運営し、”現場発”の情報を元にしたコンテンツを届けている。

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