元横浜Fジーニョの多才な“今” 日本での2年半に感謝「日々の小さな喜びを共有できた」

かつて横浜Fで活躍したジーニョ氏(中央)。現在は母国ブラジルでコメンテーターとして活躍する【写真協力:藤原清美】
かつて横浜Fで活躍したジーニョ氏(中央)。現在は母国ブラジルでコメンテーターとして活躍する【写真協力:藤原清美】

【あのブラジル人元Jリーガーは今?|No.1】ジーニョ(元横浜フリューゲルス/1995~97年)――“第二の人生”に影響を与えた現役生活最後の3年間

 1995年から97年にかけて横浜フリューゲルスで活躍した元ブラジル代表MFジーニョは、1994年アメリカ・ワールドカップで全試合にスタメン出場し優勝に貢献した実力者だった。来日時の年齢が27歳とまさにキャリアのピークで、卓越した技術を誇った左足で巧みにゲームをコントロール。同時期に同じパルメイラスから加入した同胞のMFセザール・サンパイオ、FWエバイールとともに、横浜FをJリーグで優勝争いを演じるチームへと押し上げた。

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 日本を去った後も、ブラジルでは古巣のパルメイラス、グレミオ、クルゼイロ、フラメンゴなど、ビッグクラブでプレーを続け、多くのタイトルを獲得。その選手生活の最後の3年間が、ジーニョの第二の人生における可能性を大きく広げることになった。

 現役最後のビッグクラブとなったフラメンゴから去ったのは、2005年のこと。まだ余力のあるうちに、故郷のノーヴァ・イグアスFCでプレーしながら、リオ州選手権2部から1部に昇格させるというプロジェクトを手がけることにしたのだ。

 もともと、このクラブのオーナーの一人だったが、この機会に選手を兼任しながら、クラブ運営にも本格的に乗り出した。

「僕が行くことでメディアの関心も集まるし、勝てば反響も大きくなる。最終的に、チームは2部で優勝したんだ。すると、所属選手に対して、外国からもオファーが来るようになってね。それは街全体の大きな喜びとなって、子どもや女性にもスタジアムに来てもらえるようになった。僕はプレーはもちろん、運営管理、宣伝普及、社会事業と、すべてに関わったんだ。クラブや街の人たちと幸せを分かち合えたし、多くを学ぶことができた」

 目標達成後はアメリカへ。ブラジルのスポーツマーケティング会社主導で動き出したクラブ、マイアミFCへの誘いだった。最初は、アメリカの若い選手たちのお手本になるために、選手として入団。やがて監督兼任となり、最後は指導に専念した。

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藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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