「トップはダメ」→浦和が「取りたい」 元日本代表の分岐点…引き抜き察知で「じゃあ上げよう」

西大伍「チームにSBを器用にこなせる選手がいなかったんで、僕に回ってきた」
2025年シーズンを最後に20年間の現役生活に別れを告げた元日本代表の西大伍。ご存じの通り、西は北海道コンサドーレ札幌のアカデミー出身だ。(取材・文=元川悦子/全7回の2回目)
【PR】ABEMA de DAZN、2/6開幕『明治安田Jリーグ百年構想リーグ』全試合生配信!毎節厳選6試合は無料!
◇ ◇ ◇
同クラブのU-15から在籍し、中学生時代は同い年のハーフナー・マイク(解説者)と2トップを形成した。U-18時代は四方田修平監督(現大分監督)に師事。中盤を主戦場とし、テクニックに磨きをかけ、2005年JFA高円宮杯全日本ユース選手権(U-15)準優勝の原動力となる。そして2006年からトップ昇格を果たしたのである。
「実を言うと、高校3年の夏にヨモさんに『トップはダメだ』と言われたことがあるんです(苦笑)。でも高円宮杯で活躍したことで、(浦和)レッズのスカウトさんが僕を取りたいと言ってくれたんです。そういう動きを察知して、クラブも『じゃあ上げよう』ということになったのかなと思います。
ヨモさんは本気で自分にもサッカーにも向き合ってくれる人だった。それはプロになって、長く戦っているなかでより一層、感じた部分です」
神妙な面持ちで語った西。札幌ユースの黄金期を築いた指導者との出会いが、プロキャリアを切り開く原動力になったのは間違いないだろう。とはいえ、トップ昇格後はすぐに出番が巡ってきたわけではなかった。柳下正明監督(現浜名高校)が率いた2006年は出番なし。三浦俊也監督体制に移行した2007年も当初はメンバー外で、9月には提携していたブラジルのECヴィトーリアへサッカー留学に赴いた。
ところが、主力の負傷者続出もあって、10月末に呼び戻されると、そこから試合に出始める。J1に上がった2008年も27試合出場。プロ3年目でようやく基盤固めができたと言っていい。
そんな西にとって重要な転機となったのが、2009年だ。1年でのJ2降格を余儀なくされ、指揮官が石崎信弘監督(現松本山雅監督)に代わると、右サイドバック(SB)を筆頭にさまざまなポジションで起用されることになったのだ。
「今となれば、SB以外でここまでできたかと言われると分かんないですけど、全然やりたくないところもありましたよ(苦笑)。でも当時のチームにSBを器用にこなせる選手がいなかったんで、僕に回ってきたという感じ。人がいなかったからだと思います。
あの年はGK以外は全部のポジションをやりましたね。左SBでスタートして、右SBもセンターバック(CB)もやりましたし、中盤はもちろんFWもやった。毎回移動していくみたいで目まぐるしかったですね(笑)。石さんにどんな意図があったか分かんないけど、『俺って、どこでもやれるんだな』という気持ちにはなりましたね」
西のユーティリティ性に着目した石崎監督は“昇格請負人”であると同時に、“選手の眠っていた才能を開花させる名人”でもある。過去にも佐藤由紀彦(FC東京U-18監督)、山根巌(流通経済大学付属柏高校コーチ)、李忠成(タンピネス・ローヴァーズGM)、汰木康也(柏)らをブレイクさせており、西も名将に師事したことで高い領域に辿り着くチャンスを得た。
「右SBをやるようになって、本当に楽しいなと思ったのは、2010年にアルビレックス新潟にレンタル移籍したときですね。マルシオ・リシャルデスとの関係性がよかったですからね。彼は本当に頭がいいし、技術的にも高いMFだったんで、僕が生きる動き方をしてくれたし、試合のなかでいろんなことをプレーで教えてくれました。
何か言葉で意思疎通したわけじゃなかったけど、感じ取れる動き方をしてくれたんですよね。それは右CBに入っていた千葉和彦(FC琉球)もそう。感覚的に合う選手と一緒にプレーしながら、いろんなことを教わった1年でしたね」
初めて故郷を離れた23歳の1年間を懐かしそうに振り返った西。その新潟時代にコーチとして西を直々に指導した日本代表の森保一監督は、そのボールコントロール技術に驚かされたと明かす。
「当時の大伍はトラップの技術がそれまで見たことがないくらいうまくて、『一番すごい選手だな』と思いましたね。何のストレスもなく、どんなボールでも意のままに扱えるというのは、本当に素晴らしいこと。
スピードのなかでその技術をどう生かしていくかが当時のテーマではありました。本人はSBの役割を落とし込みつつ、黒崎比差支監督(現U-22ミャンマー代表監督)から求められたハードワークを高めていって、自分なりにそのポジションをつかみ取っていたのかなと思います」
西にとっては初めての移籍だったわけだが、環境適応もスムーズに進み、黒崎監督や森保コーチとの良好な関係性を築いていった。本人は「僕は社会不適合者だから」と冗談交じりに笑うが、多彩なクラブで数多くの人間と向き合いながら、勝てる集団を作っていく作業の基盤を新潟で築いたとも言えるだろう。
「移籍ってみなさんが思うより難しいもの。それまでの慣れた環境で結果を出すことよりもさらにハードルが上がりますし、結果を出さないと移籍した先では認めてもらえない。非常に厳しい立場に追い込まれるんです。それは僕も移籍を経験したから分かりますけど、大伍は新潟でしっかりと結果を出し、自分の将来につながる道を切り開いた。すごくいい経験になったと思いますね」
師事した名指導者から高い評価を受けた西自身も、温かい言葉に改めて喜んでいるのではないだろうか。その後は新潟を経て、一気に成長曲線を引き上げていくことになるのだ。(第3回に続く)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。





















