19歳で代表入り→初の同室 釜本邦茂さんが奥寺康彦氏に施した「ストライカー教育」

奥寺康彦氏が釜本邦茂さんから教わったストライカー論とは?【写真:JFA & 山田真市 / アフロ】
奥寺康彦氏が釜本邦茂さんから教わったストライカー論とは?【写真:JFA & 山田真市 / アフロ】

奥寺氏が釜本さんから学んだこと「後継者にはなれなかったね」

 日本人欧州プロ第1号の奥寺康彦氏(73)が、亡くなった釜本邦茂さんへの恩を明かした。19歳で初めて日本代表入りし、遠征で同室になったのが釜本さん。「ストライカーとしての教えが、後のサッカー人生に生きたし、ドイツ移籍にもつながった」と感謝した。

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 場所はマレーシア、当時毎年日本代表が参加していたムルデカ大会の遠征だった。「当時監督だった二宮(寛)さんから釜本さんと同じ部屋をあてがわれた。子どもの頃から憧れの存在だったし、すごく緊張したのは覚えている。釜本さんは優しかったけれど」と振り返った。

 同部屋になったのは、二宮監督が釜本の「後継者」として奥寺氏に期待していた証拠。「それは、すごく伝わってきた。僕も必死。ストライカーとしての基本的な技術から心構えまで質問したし、いろいろとアドバイスもいただいた」と話した。

 もっとも、同じFWでもタイプは違う。前線でパスを受けてシュートを決める釜本さんに対し、奥寺氏は少し後方からスピードを生かして前線に飛び出すタイプ。「でも、二宮監督は僕をストライカーとして使いたかったようだったし、釜本さんからすべてを吸収しようと思っていた」と当時を思い返すように話した。

 一番印象に残っているのは「ボールのもらい方」だという。「ボールをどう止めて、どう動かして、どこに置くか。すべては次のシュートを考えてのこと。シュートから逆算して、プレーを決める。サッカーで大切なことを学んだ」と振り返る。ストライカーは感覚派に思われがちだが、釜本さんは細かいところまでこだわっていたという。

 現実的にはポジションも違うし、プレースタイルも違った。それでも「釜本さんの教えは役に立った」と奥寺氏はいう。「どこのポジションでも、どんな局面でも、最終的にゴールを目指すのがサッカー。パスもドリブルもゴールにつながるシュートを打つため。パスのためのパスでは意味がないし、すべてはゴールにつなげないと」と話した。

 釜本さんの「ストライカー教育」の成果が出て、76年のムルデカ大会では釜本さんとのコンビで7ゴールをあげて得点王を獲得。それが、翌77年のブンデスリーガ1FCケルン移籍にもつながった。「釜本さんのアドバイスのおかげ。すごく感謝しています」と言った。

 奥寺氏はドイツでFWとして活躍した後、サイドバックに転向した。それでも「DFになっても攻撃が好きでゴールは狙っていたし、釜本さんからの学びは生きていた」。正確なプレーで「東洋のコンピューター」と呼ばれた奥寺氏。釜本さん譲りのゴールから逆算する緻密な考えが、コンピューターを動かしていたのかもしれない。

 ドイツに移籍したことで日本代表からも遠ざかり、二宮監督の「奥寺をストライカーに」という方策は結実しなかった。その後、多くの選手が日本代表のセンターFWを務めたが、釜本さんのような典型的なストライカーはいない。メディアなどが「釜本2世」と騒いでも、実際に「2世」と呼ばれるようなタイプの選手は現れなかった。

「後継者にはなれなかったね」と、初代「釜本2世」候補の奥寺氏は言ったが、その教えは今も生き続けているという。「世界的なストライカーが高校を出たばかりの私に親身になってアドバイスをくれた。今も感謝は尽きません」。釜本さんの教えを受け、日本から初めて欧州に飛び出した日本サッカーのパイオニアは、そう言って天国の「師」を悼んだ。

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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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