出場わずか3試合…面談で「どこか行きたい」 運命を変えた“J2降格”「あそこで変わった」

J2愛媛にレンタル移籍を経験した
サンフレッチェ広島やFC東京で活躍し、今年1月に現役引退を発表した元日本代表MF高萩洋次郎氏が、「FOOTBALL ZONE」のインタビューに応じた。クラブ史上初の高校生Jリーガーとなったが、試合には出られない日々。運命がかかった面談を経て、広島のキーマンへと成長した。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全11回の3回目)
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クラブ初の高校生Jリーガーとなった高萩だが、プロの壁は高かった。プロ1年目となった2004年は8月21日のJ1第2ステージ・セレッソ大阪戦でプロ初ゴールを挙げたものの、出場は4試合だけ。さらに翌2005年は、1試合も出場できなかった。メインはもっぱらサテライトリーグだった。
「やっぱり難しいな、試合に出られないだろうなというのはありました。それこそ、ベンチ入りメンバーも16人で、交代3人でという時代でしたし。小野さんもユースの時は思い切って使ってやろうと思っていたと思いますけど、プロ契約しちゃうと毎日練習でも見られるので、やっぱり17歳の選手よりも、他の選手の方がいいなと思うと思うんですよね。自分では何か足りないなという感じではなくて、試合に出てないから何が足りないのかも分からないし。本当、一生懸命練習していた感じですね」
何かを変えないといけないという思いは、高萩自身もクラブも同じだった。2006年シーズンが始まる前に強化部長からレンタル移籍を打診された。最初はJ2ザスパ草津(現ザスパ群馬)の練習環境を見に行ったが悩んでいたところ、J2に昇格したばかりの愛媛FCも候補に挙がった。
「広島からフェリーで1時間ぐらいと近かったですし、行ってみようかと。環境面は水道でシャワーでしたし、外で着替えたり、土のグラウンドの日もあったり……という感じでしたけど、若かったからそういうのは全然気にならなかった。ユースもそんな感じでしたしね。何より試合に出られて楽しかった。本当に充実していましたね」
プロとして初めてレギュラーとして44試合に出場。プロのリズムも掴めた。自信を手にして広島に戻ったが、再び壁にぶち当たった。愛媛に武者修行していた2006年6月から監督はミハイロ・ペトロヴィッチに変わっていた。
「もう練習からついていけないんですよ。本当に複雑で。この練習、すごい難しいなって。何したらいいか分からないみたいな。まずタッチ数の制限が複雑で、パスをもらった相手にリターンしちゃいけなかったりとかいう条件がある中で、狭いコートでポゼッションの練習とか。例えば、ワンタッチの条件で3人目が受けようとすると、もらいにいく相手は決まっているのに、そこにパスは返せないし、ワンタッチでどこかにパス出さなきゃいけないって、なかなか経験がなくて。もう最初は全然できなかったです」
運命の“面談”「どこか行きたいです」
愛媛で身につけた自信はズタボロにされた。チームが残留争いする中、与えられた出番はわずか3試合。チームも入れ替え戦の末にJ2降格が決まった。シーズン終了後、降格にもかかわらず異例の続投となった“ミシャ”と一人一人面談があった。高萩の頭には再びレンタル移籍することが頭をよぎっていた。
「全く試合に絡めなかったので、同じような立場で考えているのであれば、どこか行きたいですって言ったんです。いま思えば、すごいですよね(笑)。愛媛で一回レンタルを経験していたので、その良さも分かっていたので。自信があって帰ってきて、自分としても調子は良かったのに、1年間出られなかったから悔しくて。でもミシャさんは『残留争いをしていたからベテランを頼りたかった。それがうまくいなかくてJ2に落ちてしまったから、来シーズンは若い選手で行こうと思っている』と言ってくれたんです。それでとどまることにしました」
2008年は広島にとっても変革の年だった。過去2年エースを務めていたウェズレイが退団。序盤は前年と同じく2トップだったが、中盤戦以降は“ミシャ式”と呼ばれる3-4-2-1に変更した。その中でシャドーとして輝きを放ったのが、22歳になった高萩だった。
「いろいろ重なったんですよ。(柏木)陽介がアキレス腱痛で悩まされていて試合に出られない時間が多くて、浩司さんも出られなかったり。システムもウェズレイがいなくなってそれまで2トップだったのが、1トップ2シャドーになって。そういうタイミングで出させてもらった。もうあの時はミシャさんのサッカーも1年練習しているから慣れていましたし、あそこで広島のサッカーが完成した感じがしますよね」
この年、広島は42試合で勝ち点100を積み上げ、圧倒的な強さでJ2優勝を果たした。自身も38試合に出場し、キャリアハイとなる14得点をマーク。J1昇格の立役者となった。
「本当に僕はあそこでかなり変わったと思います」
以降も“ミシャ式”のキーマンとして、レギュラーに定着。2010年のナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)では、ニューヒーロー賞を受賞した。
そしてもう一人、高萩の運命を変えた男との出会いがあった。
(FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎 / Shintaro Inoue)





















