なぜ小野伸二や中村俊輔は「天才」になったのか 成功と失敗を分けた「創意工夫」

中村俊輔、中田英寿、小野伸二【写真:Getty Images】
中村俊輔、中田英寿、小野伸二【写真:Getty Images】

【識者コラム】天賦の才を有していても、日本では特別待遇が許される環境を探すのは困難

 サッカー界では、数々の「天才」が歴史を彩ってきた。「FOOTBALL ZONE」では、天才をテーマに特集。成功と失敗の分かれ道とともに、天才の系譜を辿った。

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 きっと日本は、天才には居心地が悪い。例えば今幼少のリオネル・メッシがいても、プロに到達するまでには必ず走る猛特訓を課す指導者に遭遇してしまうだろう。

 すでに小学生の段階でも、日本と欧州や南米では明白な違いがある。概して日本の子供たちはコーチに聞く。

「僕の課題は? どこを直せばいいですか?」

 しかし、欧州や南米では真逆だ。

「俺はこんなプレーが得意なんだ。もっとそこを見てくれよ」

 メッシは突出した攻撃面での天賦の才を生かして、ほかに類を見ないパフォーマンスを貫き通した。どんなに守備を疎かにして省エネに徹しても、買い手はいくらでもついた。しかし、同調圧力の強い日本では、どんな天賦の才を有していても、特別待遇が許される環境を探すのは難しい。

 極論になるが、傍目には邦本宜裕は本当に悔やまれるサンプルだ。浦和レッズ時代には16歳8日でトップチームにデビュー(天皇杯)し、その日にゴールを決めた。ところが邦本を待っていたのは、想像を超えた紆余曲折だった。結局日本でも韓国でも規律を犯してしまい、遠回りをした末にポルトガルに新天地を求めた。邦本がサッカーで壁に跳ね返されたことはない。それどころかポルトガル1部カーザ・ピアでもスタメンでプレーを続けているから、まだブレイクの可能性は残されている。

 しかし、とりわけ日本ではピッチ外での脱線は致命傷になりがちで、逆に成功例を辿れば早い段階から未来を逆算した効率的な準備がクローズアップされる。10歳でスペイン1部FCバルセロナのアカデミーに入った久保建英は、渡欧前から分厚いスペイン語の辞書を楽しそうに読んでいたそうだ。また中田英寿は、Jリーグが開幕する前から欧州進出を夢見て英語やイタリア語の勉強を始め、いよいよ現実味を帯びる頃には筋力強化を図り、縦に速い決定的なパスを通すトレーニングを続けていたという。

日本サッカー史上で正真正銘の天才は「釜本邦茂」

 どんな天賦の才も、磨かれなければ開花しない。“人類最速の男”ウサイン・ボルトも9秒58の短編傑作の裏には吐きながらの過酷なトレーニングがある。そして日本サッカー史も過去を紐解けば、競技の特質に即した才能を賢明さで補足した秀才型の成功が目立つ。

 2002年に東京で開催されたU-17ワールドカップ(W杯)の日本代表で、10番を背負ったのは財前宣之だった。同僚の中田英寿にとっても技術的には見上げる存在で、チームでプレーの範を示すのは必ず財前だった。だが、高校年代を経て財前が選んだのはラツィオへの留学で、中田はJクラブの大半が獲得に乗り出すなかで最初から出場できる可能性を考えてベルマーレ平塚(当時)を選択する。財前が述懐していた。

「中田はJリーグで基盤を作り、それからイタリアへ渡った。やっぱり運動能力の高いヤツが技術を身につけると強い。それに対して僕は、当時全盛の読売クラブ(ヴェルディ)では出番が回って来そうもないので、逃げに近かったと思います」

 もし日本サッカー史上で正真正銘の天才がいたとすれば、それは釜本邦茂だ。日本のスポーツ界が野球一色だった時代に、どんな競技でも成功を約束されそうな完璧なアスリートがサッカーを選んだ。恵まれた体格と運動能力に加えて、釜本には際立った吸収力があった。

 ドイツにわずか3か月間留学をして、本人の弁によれば「オフだったので、毎日トップレベルの映像を見ていただけ」だと言うが、周囲の誰もが帰国後の急変貌を証言している。23歳で五輪得点王に輝き、恩師のデットマル・クラマーは「フランツ・ベッケンバウアーとの競演も考えていた」そうだが、ウィルス性肝炎で夢は立ち消えた。

 クラマーは、大半がサッカーを始めて10年前後の選手たちが五輪のメダリストになれた理由を、端的に語っている。

「大学出身者が多く、みんな賢かった」

 日本スポーツ界もだいぶ景色が変わり、今ならトップレベルのアスリートがサッカーを選ぶ可能性も少なくない。だがサッカーに限らず、世界の頂点を競う日本人アスリートに共通する武器は創意工夫だ。小野伸二や中村俊輔は、サッカーの虜になり夢中で技を追求した。おそらくどんな苦境下でもサッカーの魅力を忘れなかったことが、卓抜した職人芸の習得につながった。

 人知れず、この国では多くの天才が潰れて来たに違いない。しかし競技と夢中で向き合い、知恵を絞って正しい方向へ努力できた秀才たちは、はるかに高い確率で生き残っているような気がする。(文中敬称略)

(加部 究 / Kiwamu Kabe)



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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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