JリーガーがNHKディレクターに転身 失敗続きだった浦和での2年間、引退決意と浪人生活の舞台裏「超一流とやれたことが財産」

浦和レッズ在籍時代の中川直樹氏【写真:(C) URAWA REDS】
浦和レッズ在籍時代の中川直樹氏【写真:(C) URAWA REDS】

「長い人生を考えたら別の道に進む選択肢もある」と引退決意

 03年1月26日の加入会見では、「両足でのロングフィードを見てほしい。ボランチでもセンターバックでも問題なく、自分がいれば安心と思ってもらえる選手になりたい。(元スペイン代表の)フェルナンド・イエロのプレーを参考にしている。1日でも早く、トップチームでプレーしたい」と抱負を語り、大いなる大志を抱いていた。

 当時の浦和は3バックを採用し、中川はサテライトチームを指導した柱谷哲二コーチからストッパーに任命される。ところが守備ラインには腕利きが勢揃いし、高卒の新人が割って入る隙などなかった。

 03年の第1ステージは坪井慶介、室井市衛、元オーストラリア代表のゼリッチで3バックを形成し、第2ステージは坪井とゼリッチのほか、元ロシア代表ニキフォルフという顔触れ。翌年は田中マルクス闘莉王が加入したほか、7月に元トルコ代表のアルパイ、9月にはブラジル人のネネといった屈強なDFが次々と加わり、Jリーグを代表する堅陣を完成させていた。

 中川は「力で相手をねじ伏せる選手が多いなか、考えてプレーするタイプの自分が、どうすればポジション争いに勝てるのか想像もつかなかったし、ストッパーでプレーする姿がイメージできませんでした」と20年近く前を振り返る。

 在籍した2年間はあっと言う間に終幕を迎え、とうとうトップチームの公式戦には一度も帯同できないまま契約満了となった。指導陣に助言を求め、トップチームに絡むための展望を真剣に描けなかったこともマイナス要素だったのだろう。

 だがたった2年で引退するのも未練があり、Jリーグのトライアウト(加入テスト)に参加。日本フットボールリーグ(JFL)の横河武蔵野FC(現・東京武蔵野ユナイテッドFC)から声が掛かったが、副業に就きながらのサッカー選手という話だった。「プレーしている時は楽しいと思うけど、長い人生を考えたら別の道に進む選択肢もあると考え、大学進学を決めました」と引退を決意し、最短で“3浪”覚悟の受験勉強に入った。

 父親が化学の講師だった大手予備校に通い、1浪の末に早稲田、明治、立教に合格し、早大商学部に入学。サッカーは浦和のアマチュアチームで楽しくプレーした。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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