JリーガーがNHKディレクターに転身 失敗続きだった浦和での2年間、引退決意と浪人生活の舞台裏「超一流とやれたことが財産」
【元プロサッカー選手の転身録】中川直樹(浦和)前編:2003年、浦和ユース主将がトップチームへ昇格
世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。
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今回の「転身録」は浦和レッズのユースで育ち、その後に浦和のトップチームに昇格したDF中川直樹だ。浦和に2年間在籍し、契約満了を受けて、1浪の末に早稲田大学商学部に入学。卒業後は日本放送協会(NHK)に就職し、現在はNHKの中堅ディレクターとして活動するキャリアを振り返る。(取材・文=河野正)
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浦和にとって2003年というのは特別なシーズンで、たくさんのトピックスがあった。
ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)を制し、クラブ創設12年目にして初タイトルを獲得。エースFWエメルソンは、Jリーグの年間表彰式でチーム初の最優秀選手賞に輝き、看板選手だった福田正博の引退試合には5万人超の大観衆が集まった。練習拠点のクラブハウスの大改修をはじめ、クラブの目玉事業に発展した「ハートフルクラブ」が活動を開始したのもこの年だ。
驚天動地もあった。東京ヴェルディから加入したFWエジムンドが、ハンス・オフト監督の指導方針を受け入れず3月に早々と逐電。そのオフト監督は、ナビスコカップ優勝会見の最中に自ら辞意を表明した。
そんなこんなの03年、浦和レッズユースの主将だったMF中川直樹は、GK加藤順大とともにトップチームへ昇格。ユースからの加入は、この2人でちょうど10人となった。
埼玉県与野市(現・さいたま市)の上落合サッカー少年団時代には、埼玉県トレセンに選ばれるほどの腕前。「自分はそんなに凄い選手ではなかった」と控えめだが、数百人が志願して合格者20人ほどという浦和ジュニアユースの選考会を突破した。晴れて人気クラブの下部組織の一員となったが、浦和が特別好きなチームだったわけではない。
「中体連でやるつもりはなく、もともとクラブチームを希望していたのですが、たまたまレッズの練習場が自宅から近かったんです。レッズの試合は、94年か95年に大宮サッカー場で一度見たくらいでした」と苦笑し、聖地・浦和駒場スタジアムで観戦した記憶はないそうだ。
ボランチを担当したジュニアユース3年では、日本クラブユース(U-15)選手権8強、センターバックに指名されたユース時代は3年生の時に日本クラブユース(U-18)選手権で準優勝し、Jユースカップでも4強入り。昇格が決まるとサテライトリーグ3試合で経験を積み、9月29日の鹿島アントラーズ戦では決勝点をマークしている。
「漠然とサッカー選手になりたいと思っていましたが、高校3年で現実味を帯び、実際に昇格が決まった時はすごく嬉しかったです。優秀な仲間が大怪我や故障を重ねた一方で、自分は怪我とは無縁だった。ただ昇格できたといっても、決してエリートではありませんでした」
今だから発する言葉なのか、それとも当時から遠慮がちに自分を見つめていたのだろうか。
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。