3度の挫折を乗り越えて こだわり続けたプロへの道、不屈の男が歩んだ“恩返し”のキャリア

レノファ山口時代はキャプテンも務めた(前列右端11番)【写真:Getty Images】
レノファ山口時代はキャプテンも務めた(前列右端11番)【写真:Getty Images】

山口の地で旋風を巻き起こし、“街との共存”を学ぶ

 2014年、鳥養はレノファ山口へ加入する。当時JFLだった山口で1年目からリーグ戦全26試合に出場するなどレギュラーとして活躍。J3に加入した翌15年シーズンには35試合8得点と出色の出来で、チームもJ3加入初年度で初優勝&J2昇格という快挙を成し遂げている。17年シーズンにはキャプテンに就任するなど中心的存在となり、19年にFC琉球に復帰するまでおよそ5年半を山口で過ごした。

 1年ごとにカテゴリを上げ、「旋風を巻き起こした」とも言われたクラブの快進撃は山口の街の雰囲気をも変えたと実感していたという。スポーツを通じて、街が活性化される。これがのちに政治家へと転身を果たす男の“原点”となる。

「僕が加入した2014年当時、正直に言えば、レノファ山口というチームは山口県にも山口市にもまだ根付いてなかったと思います。でも、僕も含めてあの年に新加入した選手は特に野心があったし、クラブとしても1年でも早く上のステージに行きたいと熱望していました。初めはスタジアムに1500人来ればいいほうだと思っていましたけど、いざ開幕を迎えると3000人ものお客さんが入り、そこから5000、6000人とどんどん人が増えていきました。スポーツを通して街が活性化していく様を初めて目の当たりにしました。選手とサポーターの距離も近くて、スポンサー企業の方々もまだアマチュア契約だった僕らのことをあらゆる面でサポートしてくれました。選手たちは本当にいろいろな人からパワーをもらっていました。

 試合を重ねるごとに、街を歩いていても声をかけられる回数も増えました。街中に自分たちのポスターが貼られたり、幟(のぼり)が立てられたりして、選手たちのプロ意識も強くなっていたと思います。街の人たちのおかげで選手もクラブも成長できた。これが僕の(政治家転身の)原点です」

 2019年、鳥養は「レノファ山口で現役を辞めるつもりでいた」なかで、最初にプロとしてチャンスを与えてもらったFC琉球へ移籍。「毎年ノルマを掲げて、そのノルマを達成できなかったら辞めようと思ってプレーしていました」。覚悟を決めた古巣では現役生活最後の2年半を過ごし、「プロサッカー選手」としての人生に区切りをつけた。

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