「街全体がサッカーを呼吸している」 鹿島レジェンドDFジョルジーニョがチームとサポーターに献身した訳

2014年ジーコ(左から2番目)主催のU-15日本ブラジル友好カップに鹿島OBが集合【写真:藤原清美】
2014年ジーコ(左から2番目)主催のU-15日本ブラジル友好カップに鹿島OBが集合【写真:藤原清美】

ボランチの相棒本田泰人らと深い友情を築く

 2度目の優勝を果たした1998年のJリーグも心に刻まれる。

「あの年、僕らは監督交代を乗り越えたんだ。シーズン中にジョアン・カルロスが去ったあと、関塚(隆)代行監督の時期を経て、ゼ・マリオが就任した。もちろん、ゼ・マリオが日本サッカーと鹿島の選手を理解するには、ある程度の時間がかかったよ。でも、僕らは選手同士で話し合って、試合での問題点を彼に伝え、彼がそれを練習で修正する、ということを続けた。そうやってチームの歯車が合った時、チームは13戦不敗を実現し、最後にはJリーグ優勝を達成できたんだ」

 彼はプロとしてどうあるべきかを、常に自分の姿勢で見せようとしていた。同時に、チームメイトたちと深い友情も築いた。

「本田(泰人)と僕は、Jリーグ史に残るドイス・ボランチだったと思うよ。彼は小柄で、闘志にあふれて、ダイナミックな戦士だった。ヘッドでどこへでも望むままにボールを叩き込む長谷川(祥之)がいて、ペナルティエリアの外からのシュートには、黒崎(久志)がいた。偉大なCBの秋田(豊)、試合でチームにリズムを作る石井(正忠)もいた。名良橋(晃)は、日本サッカー最高のSBだった。守備の時には非常に強く、攻撃にはスピードがあった。それに、カーブをかけた、あんな完璧なクロスができる選手はいない。ただ、彼はここぞという時を理解しなければならなかった。オーバーラップのタイミング、ドリブルで持ち込むタイミング、キープすべき時、シュートを打つべき時。だから、そうしたプレーや練習方法について、いつも話し合った。ほかの中盤の選手たちともそうだ。

 日本人はその文化から、以前は親に抱きしめてもらったことのない選手だって多かったけど、彼らを抱きしめ、僕らが情熱と感動をともにする存在であることを、全身で伝えたんだ。ブラジル人と日本人の垣根もなかった。一緒にレストランに出かけて、奥さん同士も言葉が通じないのに、楽しそうに笑っていたりね。そういうすべてが、あの友情をもたらし、アントラーズファミリーを作り上げたんだと思う」

藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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