「心の半分は日本に置いていく」 C大阪創成期を支えた元ブラジル代表GKが誓った異国への想い

ジルマールは現在、愛する家族と幸せに暮らしている【写真:本人提供】
ジルマールは現在、愛する家族と幸せに暮らしている【写真:本人提供】

PK職人として鳴らし、同僚とも良好な関係を築く

 ジルマールについて有名なのが、PK職人としての実力だ。

「Jリーグでデビューする前、大学の強豪チームとの練習試合があってね。それがPK戦になり、僕は相手の3本のPKを止めて、さらに1本が枠の外に飛んだ。すると翌日、僕を“千手観音”と呼ぶ記事が新聞に出た。その絵柄も載っていて、すごいなと思った(笑)」

 Jリーグでも、その本領は発揮された。当時は、90分と延長戦が引き分けで終わった場合、PK戦で決着をつけるというレギュレーションだったため、PKの機会が多かった。そこでジルマールは過去3年間の試合で行われたすべてのPKのビデオを取り寄せ、各選手の蹴り方を頭に叩き込んだ。その成果はすぐに表れ、1995年ファーストステージ第6節で、元ブラジル代表MFビスマルクのPKを止めた。

「ヴェルディ川崎戦だから日本中が見ていた。それで、ほかのチームの選手たちも、僕を相手にPKを蹴るのが、少し“コワイ”ね、と不安になったんだ。その不安が、いざ蹴る時に影響を与える。だから、僕にとっては、あのセーブで大きなアドバンテージができた」

 思い出深い試合がある。1995年セカンドステージ第17節の横浜マリノス戦だ。

「90分と延長戦で0-0。僕も多くの良いセーブができた試合で、PK戦に突入した。当時のマリノスには3人のアルゼンチン人選手(ダビド・ビスコンティ、ペドリ・マサチェッシ、グスタボ・サパタ)がいたんだけど、その3人のPKを止めたんだ。ただその後、セレッソは僕とベルナルドが6、7番手で蹴って失敗し、試合には負けてしまったんだけどね」

 彼はそうしたPKセーブのコツはもちろん、GKコーチのジウベルトとともに、下部組織のGKコーチたちに見せるためのGK練習のハウツー・ビデオを作るなど、後進の育成をもサポートした。当時の状況を見て、指導法を伝授することの重要性を感じたからだ。

 ジルマールは、チームメイトとの友情も築いた。

「友だちという意味では、(梶野)智だ。当時も今も兄弟同然の友情がある。セレッソのベストプレーヤーだと感嘆して見ていたのは、森島(寛晃)。それから西澤(明訓)は、僕が引退後、フラメンゴのディレクターを務めていた時に、レンタルで連れて来ようとまでしたんだ。当時の彼なら、ブラジルのビッグクラブでも良いプレーができると確信していたから。セレッソが出してくれなかったけど、それほど素晴らしい選手だった」

藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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