英国サッカーから人種差別が消えない理由 涙の19歳に卑劣な投稿、高まる撲滅への機運

2016年のEU離脱決定までは人種差別が確実に淘汰され始めていたが…

 それは奇しくも、筆者がイングリッシュの妻と当地で結婚した同年の1993年4月に起こり、英国を震撼させたスティーブン・ローレンス殺害事件が発端だったと思う。

 この事件に関しはその詳細を記すだけで一冊の本になってしまうので、ここでは簡単に事実を振り返るだけに留める。しかしながら現在ではネットという便利なものがあり、「スティーブン・ローレンス」と検索すればいくらでも情報が得られるはずだ。さらに“Stephen Lawrence”とアルファベットでその名前を打ち込めば、英語ではあるが、それこそ膨大な数の記事や動画も見つかる。

 英国で暮らし始めたばかりで、欧米の人種差別の現実に疎かった当時の筆者にとって、本当に衝撃的な事件だった。当時18歳の学生だったスティーブン・ローレンスがロンドン南東部のエルタムで“黒人だった”という理由だけで殺されたのだ。

 彼はただバスを待っていただけだった。あまりにもバスが来ないので、バス停を離れて通りの曲がり角まで様子を見に行ったところで、ナイフを持った白人の非行少年グループに突然襲撃された。刺された後に走って逃げたが、首筋の大動脈を切断されており、よろよろと走ってからばったりと倒れると、そのまま道端で息を引き取った。

 この殺人事件がきっかけとなり、それまでは表面化していなかった英国の人種差別の実情が、警察内に存在する黒人への偏見も含めて、くっきりと浮かび上がった。

 当時、大学受験を目指していたスティーブンは素晴らしい少年だった。勉学に励み、素晴らしいスプリンターであり、同級生に一目置かれ、先生にも好かれていたという。被害者のそうした好ましいプロフィールは、荒れ果てた貧困エリアで育った加害者側である白人少年たちの、知性も教養も低く、身勝手で酷薄な印象と鮮明なコントラストを生み出し、事件の衝撃をさらに増幅させた。

 こうしてスティーブン・ローレンスという善良そのものだった犠牲があって、英国に「人種差別は醜悪極まりない」というイメージが確立した。また警察の初動捜査が遅れたことで、5人の容疑者が全員無罪放免(しかし2012年になって、このなかの2名が進歩した鑑識技術の結果、当時着用していた服に付着していた血痕が被害者のものと特定され、有罪となった)となった理不尽さも加わり、90年の半ばから、この国で人種差別が真剣に、そして確実に淘汰され始めたのである。

 ところが、繰り返しになるが、それが2016年のEU離脱決定からおかしくなった。

 しかし、今回のイングランド代表に向けられた人種差別の憎悪は、その卑劣さ故、放った人間に鋭く逆戻りし始めた。それはやはり、あの19歳サカの純粋な慟哭があったからではないだろうか。

森 昌利

もり・まさとし/1962年生まれ、福岡県出身。84年からフリーランスのライターとして活動し93年に渡英。当地で英国人女性と結婚後、定住した。ロンドン市内の出版社勤務を経て、98年から再びフリーランスに。01年、FW西澤明訓のボルトン加入をきっかけに報知新聞の英国通信員となり、プレミアリーグの取材を本格的に開始。英国人の視点を意識しながら、“サッカーの母国”イングランドの現状や魅力を日本に伝えている。

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