熊本の大地が育んだリオ五輪代表の植田と豊川 類稀な個性を磨いた母校に息づく”成長の輪廻”

2人をさらに成長させたライバル関係

 

 豊川と植田が紡いだ3年間。それを知るのは、平岡と、豊後街道沿いに位置する大津高の広大な土のグラウンドだ。このグラウンドで、2人は”変態”に磨きをかけた。

「2人とも本当に負けず嫌いだったね」

 練習に励む選手たちの姿を見ながら、平岡は懐かしむように語り出した。コンバートされた2人は、よく1対1や、紅白戦でもマッチアップをしていたという。

「最初はね、豊川は植田をちょっとバカにしていた。そりゃそうだよね、中学の時の実績は天と地だったんだから」

 しかし、植田がCB転向わずか3カ月でU-16日本代表に選出されると、豊川の意識は大きく変わった。破竹の勢いで頭角を現していく植田に対し、「絶対に負けたくないと思った」と、ライバル心に火がついた。全体練習のない日も、グラウンドには砂ぼこりを上げながらシュート練習をする豊川の姿があった。それに負けじと、植田も貪欲に上を目指し続けた。

「豊川は本当にうまいけど、僕は本当に下手くそだったので、みんなより努力しようと思った。大津高の大先輩の巻誠一郎(現ロアッソ熊本)さんが、高校時代に『ものすごく努力をしたから日本代表としてワールドカップ(W杯)に出られた』という話を監督から聞いて、自分も日本代表を目指そうと思えました」

 グラウンド奥には、ひもでつるされたボールがある。その傍らのフェンスには、2006年のドイツW杯でプレーしている巻の写真が大きな幕となって張られ、そこには『進化』と書かれている。

 このボールこそ、巻が来る日も来る日もヘディングをし続けた『ヘディングマシン』だ。マシンといっても、ただボールをひもでつるしてある原始的な代物。だが、巻は回を重ねるごとに、ボールの高さを上げ、より高い打点と正確にミートする技術を3年間磨き上げた。平岡が目をかけた“変態”の一人は、不断の努力を重ねた。「利き足は頭」という名言を残し、そのヘッドでW杯戦士となった。偉大な先輩の後を追うように、植田も「僕は誰よりも高く飛びたかった。だからこそ、毎日挑戦する気持ちで飛んでいた」と、このボールで自らの武器を磨いた。

 

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